可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

『快楽の館』へのラブレター

9月27日、品川の原美術館で開催中の篠山紀信展「快楽の館」に行ってきました。

正直、めちゃくちゃ下心アリで。

だから、もし真面目に話すような内容がなければ「壇蜜のヌードエロかったわ~」で終わりにしようかと思っていたんです。

が、そんな事前の期待以上に面白かったので「うぉー この気持ち、誰かに伝えたい!」と思いブログにすることにしました。なにより「ぼくが何を考え眺めていたのか」という思考を共有すること自体かなりエロティックな気もするので。

 

~目次~

1エロティシズム

2存在の残り香

3裸体のもつ圧迫感

4被写体の視線

5奇妙な静止

 

目次のアングラ感がひどいですが、たぶんそこまで「お耽美」な内容ではないのでご容赦ください。

 

1エロティシズム

これは言うまでもない気もしますが…

「快楽の館」って銘打って全然エロくなかったら怒り心頭ですよね。一応「いや、別にぼくはエロとか期待してなかったし…」って顔して冷静を装いつつ、はらわた煮えくり返りますよ。その点、この「快楽の館」はちゃんとエロかったので第一段階クリアです。

展示されている写真の数々は、館の主人とその召使い(あるいは娼婦)たちといった設定で、サド、バタイユ澁澤龍彦谷崎潤一郎あたりの作品を想起させるような佇まいになっている。正直、こういう設定とそれを裏付けるかのような小道具のいくらかに対しては、あまりに典型的すぎてげんなりしてしまったものの、原美術館という空間を「快楽の館」へ変貌させ、最大限利用していくなかではやむを得ない戦略だったのかもしれない。

 

2存在の残り香

通常、(ライブペインティングなどを除く)展覧会や美術館の作品は会場ではない「どこか」で制作され、搬入される。だから、言ってしまえば美術館は「作品の死体置き場」となる。しかし、この展覧会は特殊で、原美術館において撮影をし、撮影場所に写真が展示されている。つまり、撮影場所=展示場所。

このことは、展示空間をビビッドなものにするとともに、ぼくたち鑑賞者と被写体のモデルとが空間を共有することも意味します。

さらに、写真から展示会場の空間に目を移すと、モデルたちが「今-ここ」において眼前で撮影をしているような錯覚を覚える。目の前に掲げられた写真から漂う「存在の残り香」とでも呼ぶべき作用により、ぼくたちはモデルと空間のみならず時間をも共有する。モデル不在の空間が、かつてそこにあった「実在」の輪郭をなぞる。

(余談ですが、この2の影響か、ぼくは作品を眺めながらずーっと寺山修司の「肉体は死してびっしり書庫に夏」という俳句ばかり頭にリフレインしていました…)

 

3裸体のもつ圧迫感

普段あれだけ公共の場で、かつ様々な世代の方入り交じり女性の裸体をしげしげと眺める機会には(ぼくは)(残念ながら)恵まれていないので、部屋中ヌード写真だらけだと文字通りクラクラします。ただ、だんだん眺めていると変な気持ちになってくるんです。

興奮するとか、勃起するとか、そういう次元の話ではなく。

その変な気持ちっていうのは、いわゆるゲシュタルト崩壊のような「今ぼくは一体なにを目にしているのだろう」という状態。

言ってしまえば、サルトルの『嘔吐』で描かれているような「実存がヴェールを剥がれた」瞬間に立ち会うことになる。

このヌード⇔裸体⇔物質を行き来する感覚は「快楽の館」のような特殊な空間でないと体験できないことだと思う。

 

4被写体の視線

この展覧会で印象的だったのが、大きな写真や目に付きやすい写真ほど、カメラ目線、つまり鑑賞者をじっと見つめる目線だったこと。

これは個人的に大きな意味を持っていたと思っていて、この視線によって「写真を視る」鑑賞者は「写真から視られる」存在へと変わる。つまり主客関係、視る/視られるの関係が転倒する。

こうして裸体を曝け出した被写体の視線により、鑑賞者たちまでも丸裸にされてしまう。

 

5奇妙に静止した裸体

全ての写真が、というわけではないのですが、特にぼくは階段わきに掲げられていた写真において被写体が「奇妙に静止している」という印象を受けた。

カメラは一瞬間における現象を記述する。

だから当然像は静止しているはず、なのに、なぜか被写体がそこから動き出そうとしているかのような、抜け出そうとしているかのように見えた。

このとき思い出したのが、デュシャンの『階段を降りる裸体』だった。

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この作品はデュシャンの絵画作品で、未来派に先んじて絵画のなかに時間を組み込もうとした前衛的な作品。ひょっとしたら篠山紀信さんはこの作品を参照し、写真に時間を組み込もうとしたからこそ「階段」を撮影したのかもしれない。

 

以上がぼくの興味深く感じたポイント5選です。ひとつひとつの話にまだ語りきれていないような心残りがありますが、もしこれを読んで「お、『快楽の館』面白そうやん。いっちょ行ってみますか」という気持ちになってくれたら嬉しいです。

そして、そこで感じたことをまた共有して、一緒にコミュニケーションの「快楽」に溺れられたら最高ですね。

 

 

 

(おまけ. 見に行く前に考えていたこと。)

「快楽の館」に関するインタビューで、篠山紀信さんが「写真は時代の写し鏡」である、と答えられていた。このテーゼについて考えた。

メディアのコンテンツの価値の評価軸でストックかフローか、というものがある。(詳しくは田端信太郎の『MEDIA MAKERS』を。)

簡単に言えば、ストックとは時代に関係ない普遍性を、フローとは時代性、即時性を指す。つまり小説とか映画とかはストック性がつよく、webニュースとかはフロー性が強い。

これを踏まえ、「写真は時代の写し鏡」というテーゼに戻ると、これはまさに写真はフローのメディアである、という宣言でもある。

しかし、同時に写真は普遍的な(ストックとしての)価値をもつ。

とすれば、究極的にフローなメディアであるからこそ、ストック性をも獲得しうるのではないか。フローかストックかという「あれかこれか」的二者択一ではなく「あれもこれも」という脱構築された状態になりうるのではないか。

ということを考えていました。

ただ、これは写真に普遍的な価値(歴史の記述としての価値なのか美的価値なのか、はたまた別の価値なのかはともかく)があることを前提とした議論なので注意が必要ですが、「写真とは…」というテーゼに対するひとつの考え方、道筋を示す灯火になりうるのではないかと考えています。