可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

Day1

 

横溝はため息をつきながらひとりがけソファに深々と腰掛けた。コーヒーを飲みながら向かいの席に座る彼女のことを見つめる。

2人は喫茶店にいる。

下北沢の南口を少しくだったところ、古着屋の2階にあるその店の窓際が2人の特等席だった。

彼女はガラス向こう眼下に広がる下北沢の雑踏を眺めている。

横溝は彼女の顔のなかでも特に鼻が好きだった。

その鼻は彼に、幼少期を過ごした松濤の高級住宅街にぽつんと佇んでいた公園のすべり台を思い出させる。

彼は幼稚園のころ、ひとりでそのすべり台にのぼり、そして降り、またのぼっていた。

そこに母と父、あるいは同世代の友人はいなかった。

彼は常に1人だったけれど、愛しきすべり台と自分の間に割って入ってくる者がいないその時間がなによりも好きだった。

彼はすべり台の面影を彼女の鼻に見る。

 


彼女の唇は薄かった。ほとんど青みがかっていると言ってもいいほどだった。

横溝はその唇があまり好きではなかった。

しかし、彼女、吉岡由紀は自分の顔のなかで唯一その唇が好きだった。

その証明として、彼女はあまり口紅をつけない。

彼女がぼってりとした唇を嫌ったのは理由があった。

 


***

 


小学生のとき、彼女の実家から歩いて5,6分ほどのところに植物が群生している家があった。

まるで植物たちの住処に人間が間借りしているような家で、その家にひとが出入りしているのを見た人間はほとんどいなかった。

オニタビラコ、イヌガラシ、ナズナヨメナ、コミカンソウ、ネジバナ、エトセトラ。

花期も色もてんでばらばらの花が、その地の所有権を争うかのように絡みあっていて、その中心にひとつ、まるで世界に対する悪意を振り撒くかのようにウツボカズラが鎮座していた。

彼女は小学校からの帰り道、道端の蟻を捕まえてはせっせとそのウツボカズラのもとに運び、さっきまで元気だった蟻が少しずつ動かなくなる様を眺めた。

生き物から栄養へ。

蟻からウツボカズラへ。

毎日欠かさず蟻を運ぶ彼女の姿はまるで、孤独なお姫様に仕える老僕のようだった。

 


雨の日だった。

その日は土曜日で、午前授業が終わると彼女は帰路についた。

最後の授業は社会だった。

彼女はいつも通り蟻を探す。

彼女は雨の日が嫌いだ。

なぜなら蟻を探すのが大変だから。

アスファルトに舗装され雨が溜まった道には蟻の姿がなく、彼女はいつもは使わない山道を通って帰ることにした。

山道、といっても何度も往復した軽自動車によって踏みならされ、その道はほとんど人間によって舗装されたと言っても過言ではないくらいならされた道だった。

その道に入ってすぐ、彼女は蟻を見つけた。

愛しの蟻。

これからお姫様の栄養となる蟻。

傘を首と肩のあいだに器用に挟みながら彼女はしゃがみこむ。

背後からそっと蟻をつかんだそのとき、声が降ってきた。

ウツボカズラの子よね?」

彼女はびくっと体を震わせて振り返った。

まさか自分の他に雨の日のこの山道を通る人間がいるとは思ってもみなかったし、なにより自分とウツボカズラとの関係を知っていることが驚きだった。

彼女はおそるおそる言った。

「あの、どなた様ですか…?」

彼女が問いかけた先にはニコニコと人懐こく微笑むおばさんの姿があった。薄いグレーの小紋柄のスカートにややピンクがかったUネックカットソーとカーディガン。

おばさん、と聞いて思い浮かべる容姿の平均値。

「驚かせてごめんなさいね。わたし、あの、あなたがいつも餌を与えてくれるウツボカズラの家に住んでるのよ。たまにね、あなたが餌をあげてくれてるのを見ていたのよ。窓のところからね。いま偶然この道を通ったら目の前にいたからつい声かけちゃったの。

大丈夫?しゃがみこんでたけど気分でも悪くなった?」

その女性はこれだけ喋ると由紀の顔を覗き込んだ。

孫を抱く祖母のように慈愛に満ちた2つの目に見つめられて、彼女は目眩がした。

ウツボカズラと自分の関係を誰か他人に知られていたことがショックだったし、そしてなによりあんな家に住むには、このおばさんはあまりに平凡すぎた。

「大丈夫です。ちょっと靴紐を直してただけなので…」

由紀は絞り出すように言った。

「あら、そう?ならよかった。この道は気をつけてね。雨の日は滑りやすいから。家はこっちよね?一緒に歩いてもいいかしら?」

おばさんは言った。

由紀は咄嗟に自分でもわからず嘘をついた。

「あ、すいません。学校に忘れ物してしまって。いまから学校に戻るんです。宿題を。明日までに出さなければいけないのを忘れていて。」

「あら、そう?じゃあ気をつけてね。わたしは家に帰るわ。はやく帰って植物に水をあげなきゃ。わたしがいなきゃ枯れちゃうの、あの子たちは。」

そう言うとおばさんはニコニコとした笑顔を顔に貼り付けたまま手を振った。

「またきてね。今度はお茶でもどうぞ。」

そう言い残して歩いていった。

由紀は山道を引き返して少し歩いてから立ち止まった。

まだ、突然話しかけられた動揺で心臓がばくばくいっているのが自分でもわかった。

そこで彼女は思い出した。

植物たちには十分過ぎるほどの雨が降っていることを。

彼女の指先でひしゃげ、もはや鉛筆の消し残しほどの痕跡だけを残して世界から消えた蟻のことを。

そして、あのおばさんのぼってりとした唇が、まるで蟻を消化するウツボカズラの内部のようにぬらぬらと紅く輝っていたことを。

 


彼女はそれ以来、厚い唇が苦手だ。

 


***

 


「お水のおかわりはいかがですか?」

カフェのスタッフが2人に声をかけた。

カフェのスタッフはまだ若く、20歳そこそこの大学生のように見えた。

黒髪のマッシュ、自然な毛流れに沿って前髪が額にかかり、まるで下北沢を擬人化したかのような男の子だった。

「ありがとう。いただきます。」

彼は言った。

「わたしは大丈夫。」

彼女は言った。

スタッフの男の子は、横溝のコップにだけ慣れた仕草で水を注ぐとテーブルに戻した。

コトン、と音がした。

スタッフの男の子はカウンター裏に戻ると、水を置いて少し高いスツールに腰かけてぼんやりと天井を眺めた。

 

 

 

彼は彼女の薄い唇が嫌いで、彼女は自分の薄い唇が好きだった。