可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

恋愛に関する一考察

吉本隆明は愛を“対幻想”であるといった。

村上春樹は「完全な十全な愛というものはこの世界にはない。」と語った。

無名の人たちが今日も「愛とは…」というテーゼに対してひとつの答えを与えようともがいている。

 

半年ほどまえのことだ。

ぼくはそのアポリアに対する自分なりの答えを、渋谷の雑踏の中で見つけた。

まったくもって大層な話ではないのだけれど、ある種の啓示のようにぼくには思えた。

渋谷にはたくさんの可愛い女の子がいた。

左を見ればボーイッシュで金髪、ショートパンツが似合うクールな女の子。

右を見れば丸眼鏡がよく似合うわけのわからないカタカナの書かれたTシャツを着たサブカル女子。

こんなふうに渋谷の街中をふらーと眺め漂うなかでふと気づいた。

「なーんだ、世の中にこんなにかわいい子がたくさんいるんじゃ、人を属性で見ている限りどこまで行ってもキリないじゃん」って。

例えば、あなたが誰かを愛しているというとき、その子よりかわいくて、おっぱいが大きくて、頭も良い子が現われたとする。

もし、相手を属性だけで見ていたなら、当然その新しい女の子に「乗り換える」ことになる。

そして、それが永遠に続くことになる。完璧な女の子、というものが存在しない限り。

でも、ひとがひとを本当に好き、愛しているというときにはそんなことはしない。

つまりそれは、相手をひとつの属性には還元しえない総体として愛していることを意味するのではないだろうか。そして、その「総体」のなかには二人で過ごした時間、記憶、思い出までもが編み込まれているのではないか。

そのことに気づいて以来、ぼくは「好き」とか「愛」について深く考えるのをやめた。

なぜなら、このとき「ひとを愛する」ということは、相手との関係性のなかに自らを投企していくこと、そしてその関係から生まれた時間をも愛することであり、それは頭で考えるよりも実践でしか為しえないものだから。

ひとを総体として愛するならば、「なぜその人のことを好きになったのか」などと考えるのは無意味だ。

だって、それは「あなたがあなたであるが故に好き」だとしか表現できないのだから。

けれどももし、恋人に「私の“どこ”が好きなの?」と訊かれたら、ぼくはあなたの持っている無限の属性のひとつひとつを数え挙げて例を示すことならできる。

その例のすべてを集めても「あなたを愛している」という言葉よりも不完全なものにしかなりえないのだけれど。

 

最後にひとつだけ提案させてほしい。

恋に億劫になっているひと。好きってなんだ?って頭を悩ませているひと。

まだまだ初心者のぼくが言うのもなんだけど、一旦、考えるのをやめたらどうでしょう。

アンディ・ウォーホルもこう言っている。

「目をつぶって恋に落ちよ。見てはいけない。」

まずは目をつぶった暗闇の中に自分を投げ出してみることから始めよう。

そして、それを受け止めてくれた相手との関係性を愛し、そこから未来に続く二人だけの時間、記憶、思い出を共に愛する。

そのとき、ぼくたちは愛の光の眩さを知ることが出来るのかもしれない。

 

村上春樹は語った。

「完全な十全な愛というものはこの世界にはない。

しかし、人はその漠然とした仮説の(あるいは記憶の)温もりを抱いて生きていくことはできるのだ」と。