ぼくは、人のセックスを笑わない
山崎ナオコーラさんの『人のセックスを笑うな』を読みました。
映画を観て大好きな作品になって、それから原作を読んでみるまで2年もの月日が経ってしまった。
今思えば、2年という月日は長いようで短い。
2年もあればひどい失恋から立ち直って恋を始めることができるかもしれない。
2年もあれば“付き合いたての恋人”から“婚約者”に進化することだってできる。
2年なんて大人になるのに充分な期間、のように思える。
だけど、ぼくはなにも変わっていなかった。
読み進めればすぐ、初めてこの作品の映画に触れたときのように、ほろ苦く優しい気持ちを思い出すことが出来た。
まず、「調子に乗るんじゃない!」とお叱りの言葉を賜りそうですが、ぼくはこの本の「俺でも書けるかも!」と思わせる“軽さ”がよかったと思う。
常人が書けるレベルのハードルの2,3cm上空を通過しているような感じ。
それは内容や細部の話ではなく、あくまで文体に関してだけだけれど。
その“軽さ”は大学生のみるめ君の視点で物語を語るときに最も適切だし、若者の共感の導入剤として上手く作用していた。
さらに、プロットも至ってシンプルだ。映画版よりももっと。
原作では、美大に通う学生のみるめ君が20歳年上で旦那もいるユリちゃんと恋に落ち、そして別れるだけ。もう笑っちゃうくらい、本当にそれだけ。
それでも、こんな要約なんかでは取り零してしまうような、映画でも語りえなかったみるめ君の心情の機微が丁寧に淡々と描かれていて美しい。
心にはいくつものレイヤーがある、と思う。
恋人が大好きだ!と思いながら同時に、ぼくたちは「この人ともいつか別れるんだろうな…」と醒めた感覚を持ち続けたりする。
しかし、そのレイヤーはまるでエッシャーのだまし絵のように思わぬところで接続していたりもする。
醒めた感覚それ自体が、本当に相手のことをどうしようもなく好きだからこそ、いざ別れに直面したとき傷つかないための防衛機制であったりすること。
そんなぼくたちの複雑で面倒な心の揺れが、巧みに文章のうえに掬い取られていた。
作中、みるめ君は語る。
「こんなかわいい人をふったという、残念な気持ちが湧くが、そういうものだ、とも思う。」
これは、映画では蒼井優が演じた可愛らしい同級生、えんちゃんについてのセリフ。
20歳年上のユリちゃんに捨てられた(?)みるめ君も、一方ではえんちゃんをフッている。
わかるよ、みるめ君。
好きになることは、本当にどうしようもないことで、好きになれないことだって同じくらいどうしようもないことだって。
そうやってぼくらは傷つけあって生きている。
だけど、みるめ君はこうも語っている。
「会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう」
悲しみの海の底で、ぼくたちは一筋の光を見る。