可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

実存か死か

実は、ぼくは、皆さんが思っている32倍(当社調べ)くらい、

不器用で愚直で熱い男なんです。

知ってました?

知らなかったでしょ。

今日はそんな話を少しだけしようと思います。

興味ない人には今までで一番面白くない話かもしれません。

 

突然ですが、

これまでにビジコンで負けたりインターン選考で落とされたりして思ったんですけど、人生には、

生きるために「必要なプライド」と「必要ないプライド」があるんじゃないでしょうか。

必要ないプライドってのは、学歴とか、これまでに成し遂げてきたこととか、そういうやつです。言ってしまえば「昔取った杵柄」みたいなことです。

大事なのは、過去に何をしたかではなく、今―これから何が出来るか じゃないでしょうか。

そういう必要ないプライドは、ガンガンへし折りましょう。

(僕はこれが一番できてないんですけどね…笑)

で、残った必要なプライドとは何かというと…

必要なプライドとは、自分が人生で成し遂げようと思っていること、その目的を“自らが達成出来ると信じること”が、必要なプライドだと思います。

 

でも、そもそもそんな信念とか持つ必要なくね?とか、色々思うところがあるかと存じます。

うん。たしかにその通りだと思います。

正直、僕自身「人生に価値はない」と思っているので、よっぽど信念なんて持たずにさっさと死んだ方が潔いと思っています。

でも、やっぱり、

自分が死ぬことが、死ぬほど怖いんです。

それに、生きてればひょっとしたら良いことあるかも…なんてスケベ根性もありますし。

人に愛されるとか、そういうやつ。

そういうわけで臆病な僕は、

「人生に価値はない…けど、どうせ生きているなら良いことしたいじゃん。」というスタンスなわけです。

で、さらに、

むしろ無意味な世界だからこそ、“不幸であらねばならない人”もいないんじゃないかと思うんです。

それでも“不幸であるひと”は事実存在しています。

それならば、“どうせ生きているならば”僕は彼らを救いたいと思うんです。不幸であらねばならない理由などないんだから。

(割と僕は自分のこの考えを、サルトル実存主義に近いと思ってるんですけど…)

まあ、ただ、こう世界を変えるだの、人々を救うだの息巻いても、

もし誰かが僕を殺してくれたら、やっぱりぼくはその人に感謝すると思います。

この無意味な世界からおさらばさせてくれてありがとう!!って。

だから、いつか考えすぎで発狂したとしても、それもしょうがないかなって思ってます。

そうなったらそうなったで自分はそこまでの人間だったってことだろうし、発狂もこのナンセンスな舞台から退場出来る方法の一つではあるんですから。

積極的には肯定しませんけど。

さすがに壊れるのも死ぬのも怖いですから。

 

ちょっと話がわき道に逸れました。

とにかく

「人生に価値はない…けど、どうせ生きているなら“現在不幸である人”を救うために努力したい」

そういう考えの僕が最も重要だと考えていることが一つあります。

それは“行動すること”です。

ひとつ引用します。マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』から。

哲学者は世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることだ。

最近読んだ、ちきりんさんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/touch/20050917)からも引用します。 

インプットだけの人なんて、いてもいなくても世の中は何も変わらない。

まさにこの通りです。

僕は、社会を変える=世の中を良くする能力を持っているのに、それを自分のためにしか使わない人がいるならば、それは怠慢であり、もっと極端に言ってしまえば“罪”だと思っています。

だから、ただただ知的遊戯に耽溺しているような学者連中には反吐が出る。

そんなもん、オナニーしているだけの猿と何も変わらないでしょ。

世界を変えようと努力しないのならば、さっさと死ねばいい、そう思ってます。

 

ただ、さらに、行動(コミットメント)の前提として重要なことがあります。

それは、

相対主義はいずれ何らかの主義・哲学に漂着せざるを得ない。表現を変えれば、僕たちは、生きていくために何らかの〈物語〉を必要とする。けれど、また同時に、相対主義を通過しない主義・哲学はありえない。それは単なる偏見でしかない。」

ということです。

信念・正義大いに結構。

ぼくも大好き。

だけど、いつなんどきもそれが一方的な正義になっていないか確認する目が必要です。

独断や偏見の魔の手は常に僕たちを狙っている。

それに対抗するだけの知恵をつけなければならないことを忘れてはならない。

最後に、『思想地図』創刊号から東浩紀さんの言葉を引用します。

本誌は、そのようなゼロ年代現代思想を俯瞰し、その限界を突破し、来たるべき2010年代の知的な羅針盤を設立するために創刊される。私たちは、もういちど、思想の力を信じられる時代を作りたいと願っている。

この文章を初めて読んだとき、ぼくは鳥肌が立つくらい感動しました。それくらい素晴らしいと思う。

だけど、本当に重要なことはここには書かれていない。

思想は武器だ。それは弱者を守るために使われなければならない。

そして、その思想に基づき“行動すること”。

それが最も重要だ。

 

 

あとがき、という言い訳。

ホントは、こういうブログを書いちゃうこと自体ダメなんですよね。

思考の整理にはなるけど、なまじ上手くまとめてしまう分、自分が本当にそう思っているのか、実はただ自分の言葉に酔っているだけなのかわからなくなってしまうから。

だけど、もし僕のこの妙な熱さに感染して、少しでも熱くなって世の中を変えるために努力したいと思った人がいるなら、それこそ書いてよかったのかもな…という気持ちにもなるのですが。

はあ…

ぼくはずるいです。

「こんなブログを書いて大上段に構えて、結局何もしてないじゃないか」

と言われれば、それまでです。

「正義だなんだ言いながら、お前が人を見下したり、悪口言ってるのも知ってるぞ!」

と言われたら、

「はい、その通りです!!申し訳ありませんでした!!!」

って首を垂れるしかありません。

僕たちは往々にして、匿名の弱者を救うことの方が簡単で、隣にいる人に優しくする方が難しい。

そういうときは、そうね、キリスト教アガペーでも思い出すしかないかな(笑)