可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

【小説】ぼくは友達が少ない

 

「俺だって知りたくなかったよ」

かれこれ六本目になる煙草に手を伸ばしながら河野は言った。

「けど、大学から帰ったら俺のベッドでヤッてたんだぜ?信じられっかよあの女」

もうこの店に来てから二時間は経過している。見渡す限り仕事帰りのサラリーマンばかりの安居酒屋で、さして美味しくもない肴をつまみながら彼の別れ話を延々と聞かされている僕の身にもなってほしい。たしかに彼は僕の数少ない親友だ。それでも興味のない話に親身になって返答できるほど僕は出来た人間ではない。

「俺のベッドっていうけど、お前は彼女の家に居候してたんだから正しくは『彼女のベッド』だろ?」

隣のテーブルに運ばれてきた鶏のなんこつを眺めながら、ぼくは気のない返事をする。

「そういう問題じゃねえよ。あいつが俺のいない間に男を連れ込んでたってところが問題で、この際だれのベッドかは関係ない。ただ一応言っとくと、おれはあのベッドで一日九時間は寝てたから、あのベッドは俺のベッドといっても過言じゃない。あいつの家にあった、俺のベッドだ。」

なぜか勝ち誇ったように彼は言い切った。まったくもって何と闘って何に勝ったつもりでいるのか見当もつかない。こういう単細胞チックなところが僕が彼のことを好きな理由でもあるんだけど。

「わかった、わかった。お前のベッドでいいよ。でもさ、連れ込んでたってことはたぶんそのとき一回だけじゃないだろ?お前それまで気づかなかったのかよ。」

 たぶんこいつのことだから気づかなかったんだろう、と思いながらも訊いてみる。コミュニケーションなんてものは大概がこうした無意味な確認の往復に過ぎない。

「それがさ、俺としたことが一度も気づかなかったんだよな。ホントあいつ巧妙に隠してたもんだよ。その点は尊敬に値するな。俺にはそんな器用なことは出来そうにない。」

「なんだよ、それ。褒めてんのかよ。」

ぼくは吹き出しそうになりながらツッコむ。

「褒めてはねえよ。ただ俺には出来ねえなって感心するってこと。感心でもねえか…」

 その微妙なニュアンスを乏しい語彙から伝えようと河野は顔をしかめながら言った。砂肝を串から外して口に放り込んだあと、彼は続けた。

「けどよ、俺の沽券に係わるからお前にも言うか迷ってたんだけど、ミカのやつ、あの細っちろいバンドマンのほかにもまだ何人か男がいたみたいなんだよな。それだけの人数と同時進行で付き合っていくってのは、やっぱりすげえよ。」

 ミカというのは彼と付き合っていた女の子のことだ。そして細っちろいバンドマンというのは河野が帰宅したときにミカとお取込み中だった不幸な青年のこと。ただ、このバンドマンもミカに騙されていたらしく、今では河野と飲みに行く仲らしい。敵の敵は味方、もしくは同じ穴の狢といったところか。それにしても河野にはこういう不思議なところがある。

 ぼくはまだこのバンドマン君には会ったことがないが、ミカには会ったことがある。よく知っている、といった方が正しいかもしれない。

 彼女と初めて会ったのは、彼女と河野が付き合い始めたばかりの大学二年の夏。別に会いたくないというぼくを河野が無理やり連れてって引き合わせたのだ。それ以来ちょくちょく河野を含めて三人でご飯を食べていたから、ぼくと彼女は一年ちょっとの付き合いになる。

付き合いたてで嬉しそうに彼女を紹介してきた河野の、まぶしいほどの笑顔が思い出されて初めて少しだけ胸が痛む。

「他にも男ね… まあ、そういうタイプの女は一人二人では済まないだろうな、とは思ってたよ。」

ぼくは言った。

「おいおい、そんなクールぶってひでえこと言うなよ。こういうときは嘘でもやさしい言葉かけるもんだろ。にしても、ミカに限ってはそういうタイプじゃないと思ってたんだけどなー」

「恋は盲目ってやつだな。」

 陳腐なセリフを吐きながら、ぼくの視線は隣のテーブルで給仕する女性店員の胸元へ向かう。屈みこむたびに露になる彼女の白い肌には微かな汗の玉が浮かんでいる。ムサい男の失恋話より目の前の美女。赤いポロシャツにつけられたネームプレートには「水上」と書いてある。みずかみ?みなかみ? 彼女はいったい何才だ?まだ若い。二十か二十一?僕らと同じ大学生だろうか?

「あんな良い子はいないと思ってたんだけどなー やっぱ俺には女を見る目がない!」

 僕が心ここにあらずであることにも気づかず、河野はそう言いながら本日七本目の煙草へ手を伸ばす。

「けど、こういうときにすぐ、新しい女紹介しろ!って言わないところがお前のいいところだよな。」

 無理やり意識を河野との会話に戻して僕は言った。僕らのテーブルの上には食べかけの焼き鳥の串が二本と締めに頼んだ鶏雑炊。それからぬるくなったビールに河野の煙草の山。そろそろ灰皿を変えてもらった方がいいだろう。出来れば、水上さんに。

「まあな。やっぱり俺、ミカのこと好きだったし。だから、そんな簡単に次行こ!次!とは言えないわけよ。」

おしぼりで額の汗をぬぐったあと、ニカっと笑って河野は続けた。

「それに、どうせ頼むならお前以外のやつに頼むよ。だってお前女友達少ないじゃん。」

河野は真面目なことを言ったあと、恥ずかしくなって茶化す癖がある。

「いや、お前よりは多いからね。」

 ぼくもすぐやりかえす。もちろん河野もこう言い返されることは織り込み済みだ。なんせ僕らの間では何百回も繰り返されたやりとりだから。

「でも、男友達は俺の方が断然多いけどな。」

 河野がさらに言い返して、ここまでがワンセット。正直お互いもうこのやりとりには飽き飽きしている。それでも会うたびに言ってしまうのは、ただの惰性というより心の底ではお互い気に入っているからかもしれない。ただ、どんな大好きだったミュージシャンもいつかは聴かなくなってしまうように、このやりとりの賞味期限が近いのも確かだ。いつか、河野との関係もこんなふうに賞味期限が来るのだろうか。

 世の中にはもう終わった関係にしがみつこうとする人が大勢いる。けど、料理でもなんでもできたてほやほやが一番うまい。惰性や不精のおかげで処分を免れたものが美味しかったためしは世の中そんなに多くない。大概は腐ってごみ箱行きだ。このテーブルの上のビールみたいに。

「さて、お決まりのやったところでそろそろ行きますか。」

僕の気持ちを知ってか知らずか、ようやく河野がこの無益な時間の終わりを告げる。

「すいません!お会計!」

彼が手を挙げて声を張り上げると店の奥から店員がくる。ああ、水上さんだ。こんな些細なことで少しだけハッピーになれるんだから、まったくもって僕の人生はチョロい。

彼女が焼き鳥の串を数えるために僕らの目の前で体を傾けると、隣のテーブルで眺めていたときには気づかなかった、香水と微かな汗の匂いが僕の鼻をくすぐる。年増の女性がつける熟れすぎた果実のような甘ったるい香りではない。爽やかで軽くて、微量の酸味がある。思わず体の芯から無方向な熱がこみあげてくる。

今日は話を聞いてもらったから、という理由で全額支払おうとする河野に、どうにか三千円押しつけ僕は一足先に居酒屋を出た。河野が店から出てくるのを独り待っていると、気だるい夏の夜風が火照った体にねばりつく。

「ホント今日はありがとな。」

河野が店から出てきて言った。

「まあね、こういうのはお互い様だから。」

「サンキュー、お前も彼女と別れたら言えよ。いつでも話聞いてやるから。あっ、別れる彼女がいねえか。」

河野はすぐ茶化す癖がある。

「うるせえよ。」

僕らは軽口をたたいて別れた。数歩進んでから、ふと気になって背後の河野をふりかえる。駅とは反対方向の家へ向かって歩いていく河野の足もとはふらついている。だけど、恋人と別れたばかりの男が無意識に漂わせてしまうような重苦しさや卑屈さが彼の背中には感じられなかった。彼は歩いていく。あいつは単純だし、女心なんてちっともわからないタイプだけど、僕なんかより断然強い。

 それに比べて僕ときたら…。

彼と別れてひとりになった解放感からか、はたまた寂しさからか、自然とポケットのスマホへ手が伸びる。ロックを解除してから通話履歴の一番上をタッチする。

「もしもし? もうバイト終わった? おつかれ。今日さ、今から会えない?うん、うん。 そう、今から。いつもの道玄坂のホテルで。いい? さんきゅー じゃあ十一時半にいつものとこで。じゃあまた、ミカ。」

電話を切って駅の方向へ歩き出す。十一時半まであと三十分ある。そうだ、バイト終わりのミカのためにコンビニでシュークリームでも買っていこう。彼女は甘いものが好きだから。

ぼくは友達が少ない。