たとえば好きなものの話とか
窓際の席でぼくは、夏の強い日差しを背に受けながら、一向に埋まる気配のない原稿用紙を絶望的な気分で眺めていた。9歳のときの話だ。
「好きなものについて書きなさい」
先生がそう言った途端、周りのみんなの硬質で不安そうな視線はふっと緩んだ。
けど、僕はなんだか得体の知れない居心地の悪さを感じた。だから、誰にも聞こえないようにそっと呟いた。
「“好きなもの”ってなんだよ」
ぼくは元々文章を書くのが得意な方ではないし、だからどんなお題をもらったところで上手く書ける自信があったわけではないけれど、それでもこのお題はとりわけ苦手だった。不安さえ憶えた。
そして、それはオトナになった今でも変わらない。
「“好き”って意外とややこしい」
そうは思わない?
僕らは
“好き”だからこそ原稿用紙一枚には収まりきらないほどそのことについて知っていたり、
“好き”なのに原稿用紙一枚を埋めようとすると途方に暮れてしまうほど、そのことについて全く知らなかったりする。
丁度いい“好き”を持つことは難しい。
だって、“好き”ってそんなに都合のいい感情じゃないから。
ところで、僕が一体なんでブログの第一回にこの話をしたか君には分かる?
分かるって思ったそこのキミ。
その想像力は素晴らしいけど、たぶん不正解だ。だって、書いてる当の僕すらよくわからないんだから。
ただ、このよくわからない想いこそ正解とも言えるのかな。
「伝えたいことがあるけれど、上手く伝えられない。」
そんな誰でも感じたことのある陳腐な気持ちが、この陳腐で平凡でちっぽけな19歳の青年を駆り立てた、ってとこ。
言葉なんて、意思疎通のツールとしてはおそろしく不完全だ。
けれど、現状これよりいい手段は発見されていないし、不完全だからこそ愛おしいってこともあるじゃない?
ほら、「隙がある女性はモテる!」って言うし。
…ちょっと違うか。
ともかく、ぼくはこの言葉というツールを、どういうわけか愛してしまった被害者の1人なわけです。
全くもってAKBにハマるオタクを馬鹿に出来ないよな。構造的には全く一緒だもん。
失礼、また脱線だ。
ともかく(二回目)、ぼくは自分の伝えたい想いを言葉にする場が欲しいなって思ってブログを始めたわけです。
だから、今後は文体や内容にこだわらずつらつらとその日その時思ったことを書いていけたらいいなぁ、なんて考えています。
詩や短歌に挑戦したり、映画や小説について書けたら楽しいだろうな。
他に書くとしたらなんだろう。
あとは…
たとえば好きなものの話とか?