可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

アンハッピー

「死にたい」を言うことの出来ない世界でぼくは生きている。
うっかり「死にたい」を口に出そうものなら、すぐに“生きなさい警察”が飛んできて、更生施設に連れて行かれる。
“生きなさい警察”は常に目を光らせているのだ。
更生施設ではアフリカの貧しい子供たちや中東の戦争孤児たちの映像を見せられて、
「生きたくても生きていけない人たちがいるのに、お前はまだ《禁じられたワード》を言うのか!彼らに比べてお前はどれほど満ち足りた生活をしているのだ!
家族がいて、友達がいて、お金もあって、ついでにお前には恋人もいる!それのどこが不満なのだ!」
こんな言葉を24時間浴びせ続けられる。
この更生施設を出る頃には、みんなすっかり見違える。
おっ、ちょうど1人出てきたようだ。

「私は間違っていました。これだけ恵まれた環境にいながら、あんな忌まわしい言葉を口にするなんて。
今ではこの更生施設に連れて来てくださった“生きなさい警察”の方々に感謝しています。そうですね、これからはもっと社会に貢献して、恵まれない環境に住む人々を救いたいと思います。」

ほら、こんな風にね。

ぼくはまだ、「死にたい」を口に出して言ったことはない。
だって、あんなヘンテコな施設に入りたくはないからね。
だけど、心の中ではいつも唱えている。

死にたい けれどもそれは深刻な悩みではなくて
死にたい 諦めに似たような、祈りに似たような
死にたい 愛されたい

何もかもが足りた生活のなかで、何かが決定的に足りない。
全てを掴んでいるようで、何も掴んじゃいなかった。

もっと貧しい人がいるから、もっと恵まれない人がいるから、そんな理由で死にたいって言えないのなら、ぼくはもっと不幸に生まれたかった。
ぼくがもっともっと不幸で不幸でどん底に生まれていたら、絶対大きな声でこう叫んでやるんだ。


死にたい!!!


扉を叩く音が聴こえる。