可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

嘔吐

おれの言葉は常に懺悔でしかない。
そして、この「懺悔でしかない」という言葉も発せられた瞬間からただの醜い自己弁護に変容する。
何層も積み重なった入れ子状の自己嫌悪でおれの言葉は作り出されている。
おれはいつだって汚い。姑息だ。卑怯だ。
こんな内面の吐露で、汚物を吐き出すことで、赦しを乞おうとしている。
抜け出せない。
言葉が口を出た瞬間粘液のようにまとわりついて身動きがとれなくなる。
おれはこれだけの文章が書けるのだ!
おれはこれだけ頭がいいのだ!
おれはこれだけ悩んでいるのだ!
そんな愚にもつかない主張を垂れ流すことで免罪符を得ようとする。
認識を言葉にすれば、すぐさま腐臭を放ち始めることを分かっていながら、おれはこのまま汚物を撒き散らすしかない。
認識を認識の形態でとどめておくと次第に心が食われて汚染され、最期には死しかないから。
それを発散する術をもたなければ。
脆弱な自我。
おれはおれ自身を罰するために存在しているのか。


罪と罰
“「きみに言っておくことがある。はっきり断言するが、きみたちはどいつもこいつも、1人のこらず、おしゃべりでほら吹きだ!何かちょっとした悩みがあると、まるで雌鶏が卵でも抱くみたいに、後生大事にそれを持ちまわる!そんなときでさえ他の作家たちの作品から思想を盗む。きみたちには自主独立の生活の匂いもありゃしない!きみたちの身体は蝋でできていて、血の代わりに乳のかすがよどんでいるのさ!きみたちの誰も、ぼくは信じない!どんな場合でも、きみたちがまず考えることは人間らしさをなくすようにということなのだ!おい、待ちたまえ!」”


“あなたは、ぼくがこんなことを言うのは、やつらが嘘をつくからだと、そう思ったんですね?阿呆らしい!
ぼくは嘘をつかれるのが、好きですよ!
嘘をつくことはすべての生物に対する唯一の人間の特権です。嘘は真実につながります!
嘘をつくからこそ、ぼくは人間なのです。
十四回か、あるいは百十四回くらいの嘘をへないで、到達された真理はひとつもありません。しかもそれは一種の名誉なのです。ところで、ぼくらはその嘘すら、自分の知恵でつけない!自分の知恵でぼくに嘘をつくやつがあったら、ぼくはそいつに接吻します。自分の知恵で嘘をつく
このほうが他人の知恵オンリーの真実よりも、ぜんぜんましですよ。
前者の場合そいつは人間ですが、後者の場合ただの鳥にすぎません!
真理は逃げませんが、生命は打ち殺すことができます。そんな例はいくつもあります。さて、いまのわれわれはどうでしょう?
われわれはすべて、一人の例外もなく、科学、発達、思索、発明、理念、欲望、リベラリズム、分別、経験その他すべての、すべての、すべての、すべての、すべての分野において、まだ予備校の一年生です!他人の知恵でがまんするのが安直で、すっかりそれに慣れきってしまった!ちがいますか?ぼくの言うのがまちがってますか?”





ぼくらはいつまで経っても自分の言葉で語ることが出来ない。