可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

隕石が落ちた日

今回は久々にブログらしい文章を書こうと思ってます。というのも、武蔵美の芸術祭に行って思ったことを少しまとめとかないとな〜っと思ったからです。
ムサヴィランズとか武蔵美美少女図鑑だけ目当てで行ったわけじゃないんですよ!ってアピールもしとこうかと笑
で、まあ、どうでもいい話からするか真面目な話からするか迷ったんですけど、真面目なやつの方が本当にしたい話なのでそっちからお話させていただきますね。


今回の文章のタイトルにした「隕石が落ちた日」というのは、12号館の地下で開催されていた『五美術大学交流展』において展示されていた作品名からとらせていただきました。(ちょっとうろ覚えなので間違っていたらすみません!!笑)
この作品は3×4の計12枚の写真で構成されていまして、芸術祭で見た作品の中では特に興味深いものの一つでした。
どう興味深いのかというと、まずタイトルが素晴らしい。
ぼくたちは(ブログの読者諸兄の大半は実際に作品を見ていないだろうし、感性的な事柄に対し“ぼくたちは”という人称を使うことに些か問題のある感がしなくもないですが、ここはご容赦ください。)“隕石が落ちた”という言葉を聞くと、ほぼ必ず恐竜の絶滅やクレーター、崩壊した街など「死」のイメージを惹起される。
しかし、この作品は12枚の写真のうち、そういったイメージを喚起させるもの(動物の死や荒涼とした土地)は半数程度しかない。
残りの半数は至って日常的な風景の写真。
この、非日常と日常という相反するイメージをもち、一見無関係のように思える写真群が『隕石が落ちた日』という詩的なタイトルによって、一つの大きなストーリーのもとに、一つの有機的なつながりとして統合される。
ぼくたちは“実は”、常に死と隣り合わせの世界を生きている。もしかしたら明日突然背後からナイフで刺されて死ぬかもしれないし、本当に隕石が落ちてくるかもしれない。
しかし、日常生活を営む中でそんな当たり前の事実すら忘れてしまう。
いや、もしかしたら忘れたいのかもしれない。
だけど、本当の世界は常に歪でアンバランスで、生か死かなんてオセロの白黒みたいにコロッと変わってしまってもおかしくない。
そんな薄氷を踏むような世界の中でぼくたちは生きている。
まさにメメント・モリといったそんな当たり前の事実を、12枚の写真によって思い出させてくれる素晴らしい作品だった。

ぼくは結構長い間、「芸術としての写真」というものに懐疑的でした。
その理由は二つあって、一つは写真なんて誰でも撮れるってこと。“天才の御業”として考えられていた「芸術」って概念が、誰でも撮れるってことでグラグラしちゃうよね〜って話。
まあ、ただ、もう一つの理由の方がぼく的には重要なのでそっち重点的に説明します。
まず、写真って絵画に比べて“ホントっぽい”じゃないですか。どういう意味かというと、絵画はもう作者自身が創造した世界ってわかりきってるから、そこにフィクションとかノンフィクションとかいう概念を持ち込むのはナンセンスだと思うんだけど、こと写真に関しては作者って存在が輪郭を喪って、現実をありのままに映してるような錯覚に陥るよねってこと。
だけど、貧しい人を撮ったように見せて、本当は、裕福で幸福な人がそういうポーズとっただけの可能性とかあるわけじゃないですか。さらに、今やフォトショとか写真のレタッチ技術もどんどん発達して、もはや被写体と似ても似つかない作品になってる可能性もある。
“真実性が疑わしい”って言えばいいんですかね、そういう部分に関して「どうなのよ?」って個人的に長らく思ってたわけです。
けど、今回『隕石が落ちた日』という作品を見たことで、そういう恣意性があるからこそ創り出せる世界もあるんだなって思ったんですよね。
というか、逆にそういう恣意性を利用することで、絵画とも映像とも違う、写真として独自の価値を生み出せるのかなって。
『隕石が落ちた日』
それはたった12枚の写真だけれども、鑑賞者次第で、そこから無限の物語を再生し得るんじゃないでしょうか。


はい、思ったより長くなってしまいました。疲労困憊です。もう少し続きますので、よかったら最後までお付き合いください。
続いて話したいのは、作品に関してというよりもぼく個人に関する話です。
芸術祭をぷらぷら歩いてたとき、4号館のどっかの部屋で面白い光景に出くわしました。
ぼくがある絵画を「面白いな〜」って思いつつ通り過ぎようとしていたら、その前で女性が作者と思しき男性に「どういう意図でこの作品をつくったんですか?」って尋ねてたんですよ。
そしたら、その男性、自分の作品なのに「きっとぼくは〜」とか「たぶん〜」とか連発してめっちゃしどろもどろに説明していたんです。
それを見たとき「えっ、なんだ美大生そんなもんか」って落胆もあったんですけど、よくよく考えたら割と当然な話ですよね。
彼らは自分が表現したいと願うものや、自分の中のモヤモヤを整理するために、絵画や彫刻という、まあ一般から言えば特殊な表現形式を選んだわけですけど、たぶんその選択の理由には多かれ少なかれ一般的な“言語”という表現形式に肌が合わなかったってこともあると思うんです。もちろん論理を言語化することが得意な芸術家の人もたくさんいますけども。
そう思ったら、せっかくぼくは言語という分野に比較的慣れているので(不遜な言い方ですいません)、彼らの作品への想いを言語化し論理づけ構成し、再び作品へと収束させるディレクターとしての仕事が出来ればすごく嬉しいな〜って思ったんですよね。
現代芸術活動チーム目【め】の南川さんみたいに。
南川さんに関してはこの記事(http://www.cinra.net/interview/201407-me)を読んでくれればいいんですけど、彼の“天才を支えるためにアーティストを辞めた”という人生、実際めちゃくかっこいいと思います。
ぼくは元々アーティストでもないし、勿論天才でなんかないので、そういう風に人を支えて生きることに抵抗はないんですけど、アーティストとして活動していた南川さんにとっては本当に苦渋の決断だったでしょう。それでも今ああいう風に活動してらっしゃるのは、重ねがさね言いますけど、すごくかっこいい。
ただ、ぼくとしては自分の中で“広告”ってものが一番にあるので、そっちの仕事をしながら、素晴らしいアーティスト=天才に出会ったときにまた考えたいと思います。


ここまでが真面目な話。長くなりすぎて自分でもびっくり。
あとは割とどうでもいい話(笑)です。
①ムサヴィランズについて
②世界の鵜飼展について
③その他

①ムサヴィランズなんですが、悪者ってコンセプトで活動してるはずなんですけど、ぼくが「2時間かけてムサヴィランズに会いに来たのに、くじハズレちゃったよ〜」って笑ってたらオクトパス・つぼ美がごめんねってジェスチャーしてて、なんだこいつらめっちゃ優しいやん!って思いました。あと、妙にみなさんセクシー。

②この『世界の鵜飼展』が1番ホントにどうでもいい話です。12号館の3Fにあった展示で、単なる悪ふざけでしかないんですけど、悪ふざけもあそこまでいくと面白いな、って思っただけです。
大学生らしくて青春っぽくて一周回っていいかもってやつ。はい、この話終わり。

③その他。
えー、芸術祭の最中に中央広場で男根を祀ったお祭り(女神神輿かな?)が始まって、武蔵美気合い入ってんなって思いました。彫刻学科伝統行事っぽくて、ぜってえ彫刻学科に入りたくねえなって思いました。
あと、これ書くためにパンフ見直してたら結構見てない展示あったので「もったいね!」って思ったんですけど、それもまた縁。いつか出逢えればいいね。
これで最後。
芸術祭には同じ高校に通ってた男友達と行ったんですけど、彼がカノジョにお土産のアクセサリーやらを楽しそうに選んでるとき、ぼくはポツンと離れた場所で独り待ちながら、カノジョのことを想って楽しそうな彼を羨望の眼差しで眺めていました。
以上本日の総括でした。