可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

ぼくたちの悲劇

今回は久々にちゃんとしたやつです。
ちゃんとしたやつ、と言うからにはちゃんと書きたいので、珍しいことに目次とか作りました。

0.そもそも
1.K君の言い分
2.ぼくの言い分
3.似てるようで似てない話
4.に、似てない!!
5.最後に

となっております。
最後までお付き合い頂けたら幸いです。

0.そもそも
まず、この記事を書こうと思ったことの始まりからお話します。
ぼくは文化サロン(Twitterアカウント:@post_dadaisme)というグループを高校の同級生3名と共に立ち上げまして、その第2回活動を2014年の12/14に神保町にて行いました。
で、その日最もエキサイトした話題に関して、ここのところ再び考える機会があったので、今回こうして記事にしようと思ったわけです。
そして、その話題とは、メンバーの一人K君の自説に関するものです。

1.K君の言い分
単刀直入に言うと、K君は
“愛とは形式である”
という思想の持ち主なんだそうです。
どういうことか、僕なりに説明しますね。(K君、間違ってたらごめん!)

僕たちが「ひとを愛する」というとき、僕たちはその対象の様々な属性(例えば性別や学歴、生い立ちなど。他にも数限りなく挙げられると思うけど。)を剥ぎ取ったさきにある、個人を個人たらしめる核または本質のようなものを愛することは不可能なのではないか。
つまり僕たちは相手そのものへの愛を語っているように見えて、その人に纏わるあらゆる諸属性を愛しているに過ぎないのだ。

“愛とは形式である”をぼくなりに噛み砕くとこういうことになります。
さらにK君はこう続けました。

この“形式でしかない愛”しか抱くことの出来ない人間は、生まれながらにして悲劇を内包している存在なんだ、と。

これに対してぼくがどういう意見を述べたかが、2章になります。



2.ぼくの言い分
ぼくはですね、まず、属性を剥ぎ取った先に個人としての核のようなものがある、という仮定に対し反論しました。

属性を剥ぎ取ったさきには、本質と呼ばれるような個人としての何かではなく、生命を生命たらしめる“普遍的な何か”があるだけではないか。(その日は生命ではなく人という言い方をしましたが、人間もひとつの属性として考えられると思い、訂正しました。そういう見方でカフカの『変身』を読み直しても面白いかもね。)

さらにそこから発展させて

“普遍的な何か”を備えたうえで個人を個人たらしめているのは“属性”それ自体であり、その意味において、ぼくたちが「ひとを愛する」というときに属性を愛していることは悲劇ではない。

こういうような応答をしました。
このあとも他の2人含めて色々話したんですけど、あまり今回の記事に関係ないので割愛します。
とまあ、このような会話があったわけなんですが、それでもやっぱり言い切れてない違和感みたいなものを覚えていたんです。
そして、最近その違和感の正体がはっきりとした出来事があったんです。
それでは第3章に。


3.似てるようで似てない話
ぼくはある面白い本を読んでいました。今も読んでるんですけど。
そこにこういうような記述がありました。

我々人間は「言葉」を、始めは親や兄弟、さらに成長すれば学校における学習によって獲得する。
つまり、言葉とは我々にア・プリオリに存するものではなく、而して完全には自分のものになり得ない。
それはすなわち、我々は生きるうえで「他者」をインストールしなければならないということである。

よく言われる“自分の言葉で語ることが出来ない”とか“私の言葉は全て借り物でしかない”とかは突き詰めればこういう意味ですかね。

また、言葉は空虚な音でしかない。
とすれば、我々は生まれながらに言葉という「空虚な他者」を抱え込んでいるのだ。しかしまた、それによって世界と折り合いをつけることが可能となっているのである。

こういうような内容でした。非常に面白いですね。
ところでですね、この話、K君の思想とそれぞれ「愛」と「言葉」という違いはありつつ、人間が本来持つ空虚さに言及している点で非常に似ているように感じます。ぼくだけですかね?笑
しかしですね、ぼくはこの2つの話には大きな違いがあると思うんです。
それが、章題『似てるようで似てない話』の意味になります。
謎解きは第4章。


4.に、似てない!!
ここまで来ればあと少しです。もう少しだけお付き合いください。

3章の通り、僕たちは最も身近な意思疎通のツールですら完全には獲得し得ないわけであり、「空虚」を中心としてコミュニケーションが行われているのです。
しかし、それを悲劇と言うか否かに大きな違いがあると思うんです。
ぼくたちが「悲劇的だ」と言うときには、主観的判断が含まれます。
そして、その判断は「それはこうあるべきだ」とか「こうあって欲しい」といった当為・願望の文脈から導かれる、ある種の“理想”からの逸脱として捉えられているわけです。
しかし、殊その“理想”を保障している文脈、それ自体に関しては何の根拠も存在しないのではないでしょうか。
「こうあるべきだ」と考える根拠はなく、「こうあって欲しい」のは私が“こうあって欲しいと願うから”でしかないわけです。
たしかに人生を悲劇的だと見る姿勢をひとつの人生観だと捉えることも出来ます。
しかし、それはすなわち
「(私が人生を悲劇的だと思いたいから)人生は悲劇的なのだ」
という自家撞着に陥ったテーゼに他ならないのではないでしょうか。
これが今回の言いたかったことです。
少しだけ補足します。
第2章に書いた通り、僕はK君に「属性を愛する事自体は悲劇ではない」という意見を述べました。今でもそこに間違いはないと思うんですが、一方で、属性の総体として「私」を捉えるのであれば、僕たちは帰納法的に属性を掻き集めて「愛してる」と言うのみであり、それはすなわち帰納法の宿命として、ひとを完全には愛しえないことの証明になるのではないか、という気もします。
これはたしかに悲劇かもしれません。
しかし、やはり“悲劇”という言葉を使うからには、我々の主観的判断の入り込む隙が出来てしまい、先ほどと同様の反駁が考えられるように思います。


5.最後に
ぼくは、決してK君の考えは間違ってるとか言いたいわけじゃないです。
K君は頭良いのでたぶんわかってくれてると思うけど。
ぼくは、「自分がこう考えてる」ってことを表明することで、彼の思想を深める役に立てればいいなって思っているだけです。ぼくもK君の話がなければこんなに深く考えることもなかっただろうし。
こういう風にお互いの思想を掘り下げていけるなら、「空虚な他者」である言葉も悪くないかもね笑
ぼくが文化サロンでやりたかったのは、まさにこういうことなわけです。
以上です。
K君また何か面白い話聞かせてください。
皆さん、よければTwitter@post_dadaismeをフォローしてください。
最後まで読んでくださった方々、愛してます。