可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

『快楽の館』へのラブレター

9月27日、品川の原美術館で開催中の篠山紀信展「快楽の館」に行ってきました。

正直、めちゃくちゃ下心アリで。

だから、もし真面目に話すような内容がなければ「壇蜜のヌードエロかったわ~」で終わりにしようかと思っていたんです。

が、そんな事前の期待以上に面白かったので「うぉー この気持ち、誰かに伝えたい!」と思いブログにすることにしました。なにより「ぼくが何を考え眺めていたのか」という思考を共有すること自体かなりエロティックな気もするので。

 

~目次~

1エロティシズム

2存在の残り香

3裸体のもつ圧迫感

4被写体の視線

5奇妙な静止

 

目次のアングラ感がひどいですが、たぶんそこまで「お耽美」な内容ではないのでご容赦ください。

 

1エロティシズム

これは言うまでもない気もしますが…

「快楽の館」って銘打って全然エロくなかったら怒り心頭ですよね。一応「いや、別にぼくはエロとか期待してなかったし…」って顔して冷静を装いつつ、はらわた煮えくり返りますよ。その点、この「快楽の館」はちゃんとエロかったので第一段階クリアです。

展示されている写真の数々は、館の主人とその召使い(あるいは娼婦)たちといった設定で、サド、バタイユ澁澤龍彦谷崎潤一郎あたりの作品を想起させるような佇まいになっている。正直、こういう設定とそれを裏付けるかのような小道具のいくらかに対しては、あまりに典型的すぎてげんなりしてしまったものの、原美術館という空間を「快楽の館」へ変貌させ、最大限利用していくなかではやむを得ない戦略だったのかもしれない。

 

2存在の残り香

通常、(ライブペインティングなどを除く)展覧会や美術館の作品は会場ではない「どこか」で制作され、搬入される。だから、言ってしまえば美術館は「作品の死体置き場」となる。しかし、この展覧会は特殊で、原美術館において撮影をし、撮影場所に写真が展示されている。つまり、撮影場所=展示場所。

このことは、展示空間をビビッドなものにするとともに、ぼくたち鑑賞者と被写体のモデルとが空間を共有することも意味します。

さらに、写真から展示会場の空間に目を移すと、モデルたちが「今-ここ」において眼前で撮影をしているような錯覚を覚える。目の前に掲げられた写真から漂う「存在の残り香」とでも呼ぶべき作用により、ぼくたちはモデルと空間のみならず時間をも共有する。モデル不在の空間が、かつてそこにあった「実在」の輪郭をなぞる。

(余談ですが、この2の影響か、ぼくは作品を眺めながらずーっと寺山修司の「肉体は死してびっしり書庫に夏」という俳句ばかり頭にリフレインしていました…)

 

3裸体のもつ圧迫感

普段あれだけ公共の場で、かつ様々な世代の方入り交じり女性の裸体をしげしげと眺める機会には(ぼくは)(残念ながら)恵まれていないので、部屋中ヌード写真だらけだと文字通りクラクラします。ただ、だんだん眺めていると変な気持ちになってくるんです。

興奮するとか、勃起するとか、そういう次元の話ではなく。

その変な気持ちっていうのは、いわゆるゲシュタルト崩壊のような「今ぼくは一体なにを目にしているのだろう」という状態。

言ってしまえば、サルトルの『嘔吐』で描かれているような「実存がヴェールを剥がれた」瞬間に立ち会うことになる。

このヌード⇔裸体⇔物質を行き来する感覚は「快楽の館」のような特殊な空間でないと体験できないことだと思う。

 

4被写体の視線

この展覧会で印象的だったのが、大きな写真や目に付きやすい写真ほど、カメラ目線、つまり鑑賞者をじっと見つめる目線だったこと。

これは個人的に大きな意味を持っていたと思っていて、この視線によって「写真を視る」鑑賞者は「写真から視られる」存在へと変わる。つまり主客関係、視る/視られるの関係が転倒する。

こうして裸体を曝け出した被写体の視線により、鑑賞者たちまでも丸裸にされてしまう。

 

5奇妙に静止した裸体

全ての写真が、というわけではないのですが、特にぼくは階段わきに掲げられていた写真において被写体が「奇妙に静止している」という印象を受けた。

カメラは一瞬間における現象を記述する。

だから当然像は静止しているはず、なのに、なぜか被写体がそこから動き出そうとしているかのような、抜け出そうとしているかのように見えた。

このとき思い出したのが、デュシャンの『階段を降りる裸体』だった。

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この作品はデュシャンの絵画作品で、未来派に先んじて絵画のなかに時間を組み込もうとした前衛的な作品。ひょっとしたら篠山紀信さんはこの作品を参照し、写真に時間を組み込もうとしたからこそ「階段」を撮影したのかもしれない。

 

以上がぼくの興味深く感じたポイント5選です。ひとつひとつの話にまだ語りきれていないような心残りがありますが、もしこれを読んで「お、『快楽の館』面白そうやん。いっちょ行ってみますか」という気持ちになってくれたら嬉しいです。

そして、そこで感じたことをまた共有して、一緒にコミュニケーションの「快楽」に溺れられたら最高ですね。

 

 

 

(おまけ. 見に行く前に考えていたこと。)

「快楽の館」に関するインタビューで、篠山紀信さんが「写真は時代の写し鏡」である、と答えられていた。このテーゼについて考えた。

メディアのコンテンツの価値の評価軸でストックかフローか、というものがある。(詳しくは田端信太郎の『MEDIA MAKERS』を。)

簡単に言えば、ストックとは時代に関係ない普遍性を、フローとは時代性、即時性を指す。つまり小説とか映画とかはストック性がつよく、webニュースとかはフロー性が強い。

これを踏まえ、「写真は時代の写し鏡」というテーゼに戻ると、これはまさに写真はフローのメディアである、という宣言でもある。

しかし、同時に写真は普遍的な(ストックとしての)価値をもつ。

とすれば、究極的にフローなメディアであるからこそ、ストック性をも獲得しうるのではないか。フローかストックかという「あれかこれか」的二者択一ではなく「あれもこれも」という脱構築された状態になりうるのではないか。

ということを考えていました。

ただ、これは写真に普遍的な価値(歴史の記述としての価値なのか美的価値なのか、はたまた別の価値なのかはともかく)があることを前提とした議論なので注意が必要ですが、「写真とは…」というテーゼに対するひとつの考え方、道筋を示す灯火になりうるのではないかと考えています。

『リップヴァンウィンクルの花嫁』に関するニ、三の事柄

ひとより少しだけ優しすぎた女の子の物語。

今回もやっぱりフェチ全開の岩井監督。「映画に愛される未来の女優を探す」なるテーマのオーディションで黒木華を見出したらしいけど、これまでのミューズだった蒼井優にとても似ている…
監督、好きなタイプわかりやす過ぎて可愛い。
共演のCocco綾野剛もよかった。
しかし本作の綾野剛、クサいセリフの数々でどうしてもスピードワゴン小沢に見えて仕方ない。


物語の前半、黒木華演じる七海は泡沫が弾けるように急速に不幸のどん底に堕ちていく。
ただ、この展開があまりに御都合主義めいていて、個人的には「えっ、ウソ… こんなにストーリー粗くてエエの…」という気持ちを抱いてしまった。
それでも次第に粗い展開すら心地よくなってきて、「ああ、これはファンタジーとして受けとめるべきだったのネ…」と気づかされる。
なんてったって“リップヴァンウィンクル”なんだし。
でもやっぱり、物語の底に流れるテーマ(結婚というシステムの欺瞞、AV女優の孤独、SNS恋愛など)はとても《リアル》で、このファンタジーとリアルの絶妙なミックスが岩井作品の醍醐味、なのかも。

終盤、真白の母が突如脱ぐ。
そしてふざけてるのか本気で心動かされてるのかよくわからん安室も脱ぐ。
もうみんながみんなわけわかんなくなって泣いて笑って酒を飲む。
全員、根っからの悪いひとじゃないんだよな。
少しだけ、ほんの少し不器用なだけなのよね。
七海の着崩れた姿がとても美しい。


新しい生活を始めた七海に対し、ネット上での繋がりしかない引きこもりの少女が問う。
「東京ってどんなとこ?」
七海は
「怖いところだよ」なんて陳腐な答えはしない。
でもやっぱり明確に答えることも出来ない。ただ代わりに、もし東京に来たら七海が案内してあげる約束をする。
七海はこれだけ辛いことがあったにも関わらず、いまだ“東京”に住み続け、そして闘い続けている。
ひとりの自立した女性の姿がそこにはあった。



映画を見たあと、こんなに皆の感想を読み漁ってしまう映画はなかった。
良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかじゃなくて。
この映画を見てみんながなにを感じ考え想っていたのか、それが知りたくて知りたくてたまらなくなる映画だった。

森山大道の世界

会期が明日までだったので、本日は雨のなかいそいそと原宿アートギャラリーAMの森山大道展に行ってきました。

詳細はこちら(http://www.fashion-press.net/news/20303)ですね。

ところで、森山大道さんの写真を見たことないひとのためにざっくり(ぼくなりに)一言で表しますと、“街角のエロス”といったところ。荒木経惟さんの写真にちょっと近いかも。

(そんなに詳しいわけじゃないので「全然違うよ!!」って意見あったらコメントください…)

とりわけ今回の展覧会は「60年代後半から80年代前半の街・路上でのスナップショット」とのことだったので、昭和の東京好きのぼくにはグッとくるものがありわざわざ行ったんですが、行ってみたら予想外の発見が。

写真から滲み出る妖気、蛇の如きぬらぬらとした情感は案の定素晴らしかったんですが、それ以上にそうした印象を増幅させるための空間演出が凝っていた。展示室の歩行ルートが“橋”のように設計されていて、あたかもコンクリートむき出しの床に水が満ちているかのような錯覚を覚える。写真展というよりむしろ、水とエロスのインスタレーション

今回の橋にはおそらく、二つの役割があった。厳密には区別できるようなものじゃなくて相互補完的なんですけど。

一つ目は、水を想起させること。水と女性、湿気とエロス。そういう親和性の高いワードを鑑賞者に思い起こさせることで写真を視覚的に楽しむだけじゃなく、よりインタラクティブな体験へと昇華させた。

二つ目は、異界との境界としての役割。橋ってのはもともと「端」と同じ語源で、「こっち」と「あっち」を繋ぐ境界という意味があります。そうした象徴性を前提として、鑑賞者を森山大道の妖艶な世界へと誘う作用を橋に担わせていたんでしょう。憎いですね。

この二つのお話、もっと気になる方は中沢新一の『アースダイバー』を読んでみてください。

めちゃくちゃ面白いし、読めばすぐ「こいつの言ってたことほぼ中沢新一の受け売りじゃねえか!!」って気づくはずです。

ただ、その話を写真展の会場で思い出したことは僕独自の発見ですので許してください。

以上森山大道写真展レポでした。

 

p.s.

今後は頑張ってこんな感じの緩い記事を増やしていこうと思います。

あと、今日僕が行ったAMでの展示は明日までなんですが、東京芸術劇場の方でも森山大道の写真展があるので行こうと思ってます。興味あるひとはお声かけくださると嬉しいです。

実存か死か

実は、ぼくは、皆さんが思っている32倍(当社調べ)くらい、

不器用で愚直で熱い男なんです。

知ってました?

知らなかったでしょ。

今日はそんな話を少しだけしようと思います。

興味ない人には今までで一番面白くない話かもしれません。

 

突然ですが、

これまでにビジコンで負けたりインターン選考で落とされたりして思ったんですけど、人生には、

生きるために「必要なプライド」と「必要ないプライド」があるんじゃないでしょうか。

必要ないプライドってのは、学歴とか、これまでに成し遂げてきたこととか、そういうやつです。言ってしまえば「昔取った杵柄」みたいなことです。

大事なのは、過去に何をしたかではなく、今―これから何が出来るか じゃないでしょうか。

そういう必要ないプライドは、ガンガンへし折りましょう。

(僕はこれが一番できてないんですけどね…笑)

で、残った必要なプライドとは何かというと…

必要なプライドとは、自分が人生で成し遂げようと思っていること、その目的を“自らが達成出来ると信じること”が、必要なプライドだと思います。

 

でも、そもそもそんな信念とか持つ必要なくね?とか、色々思うところがあるかと存じます。

うん。たしかにその通りだと思います。

正直、僕自身「人生に価値はない」と思っているので、よっぽど信念なんて持たずにさっさと死んだ方が潔いと思っています。

でも、やっぱり、

自分が死ぬことが、死ぬほど怖いんです。

それに、生きてればひょっとしたら良いことあるかも…なんてスケベ根性もありますし。

人に愛されるとか、そういうやつ。

そういうわけで臆病な僕は、

「人生に価値はない…けど、どうせ生きているなら良いことしたいじゃん。」というスタンスなわけです。

で、さらに、

むしろ無意味な世界だからこそ、“不幸であらねばならない人”もいないんじゃないかと思うんです。

それでも“不幸であるひと”は事実存在しています。

それならば、“どうせ生きているならば”僕は彼らを救いたいと思うんです。不幸であらねばならない理由などないんだから。

(割と僕は自分のこの考えを、サルトル実存主義に近いと思ってるんですけど…)

まあ、ただ、こう世界を変えるだの、人々を救うだの息巻いても、

もし誰かが僕を殺してくれたら、やっぱりぼくはその人に感謝すると思います。

この無意味な世界からおさらばさせてくれてありがとう!!って。

だから、いつか考えすぎで発狂したとしても、それもしょうがないかなって思ってます。

そうなったらそうなったで自分はそこまでの人間だったってことだろうし、発狂もこのナンセンスな舞台から退場出来る方法の一つではあるんですから。

積極的には肯定しませんけど。

さすがに壊れるのも死ぬのも怖いですから。

 

ちょっと話がわき道に逸れました。

とにかく

「人生に価値はない…けど、どうせ生きているなら“現在不幸である人”を救うために努力したい」

そういう考えの僕が最も重要だと考えていることが一つあります。

それは“行動すること”です。

ひとつ引用します。マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』から。

哲学者は世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることだ。

最近読んだ、ちきりんさんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/touch/20050917)からも引用します。 

インプットだけの人なんて、いてもいなくても世の中は何も変わらない。

まさにこの通りです。

僕は、社会を変える=世の中を良くする能力を持っているのに、それを自分のためにしか使わない人がいるならば、それは怠慢であり、もっと極端に言ってしまえば“罪”だと思っています。

だから、ただただ知的遊戯に耽溺しているような学者連中には反吐が出る。

そんなもん、オナニーしているだけの猿と何も変わらないでしょ。

世界を変えようと努力しないのならば、さっさと死ねばいい、そう思ってます。

 

ただ、さらに、行動(コミットメント)の前提として重要なことがあります。

それは、

相対主義はいずれ何らかの主義・哲学に漂着せざるを得ない。表現を変えれば、僕たちは、生きていくために何らかの〈物語〉を必要とする。けれど、また同時に、相対主義を通過しない主義・哲学はありえない。それは単なる偏見でしかない。」

ということです。

信念・正義大いに結構。

ぼくも大好き。

だけど、いつなんどきもそれが一方的な正義になっていないか確認する目が必要です。

独断や偏見の魔の手は常に僕たちを狙っている。

それに対抗するだけの知恵をつけなければならないことを忘れてはならない。

最後に、『思想地図』創刊号から東浩紀さんの言葉を引用します。

本誌は、そのようなゼロ年代現代思想を俯瞰し、その限界を突破し、来たるべき2010年代の知的な羅針盤を設立するために創刊される。私たちは、もういちど、思想の力を信じられる時代を作りたいと願っている。

この文章を初めて読んだとき、ぼくは鳥肌が立つくらい感動しました。それくらい素晴らしいと思う。

だけど、本当に重要なことはここには書かれていない。

思想は武器だ。それは弱者を守るために使われなければならない。

そして、その思想に基づき“行動すること”。

それが最も重要だ。

 

 

あとがき、という言い訳。

ホントは、こういうブログを書いちゃうこと自体ダメなんですよね。

思考の整理にはなるけど、なまじ上手くまとめてしまう分、自分が本当にそう思っているのか、実はただ自分の言葉に酔っているだけなのかわからなくなってしまうから。

だけど、もし僕のこの妙な熱さに感染して、少しでも熱くなって世の中を変えるために努力したいと思った人がいるなら、それこそ書いてよかったのかもな…という気持ちにもなるのですが。

はあ…

ぼくはずるいです。

「こんなブログを書いて大上段に構えて、結局何もしてないじゃないか」

と言われれば、それまでです。

「正義だなんだ言いながら、お前が人を見下したり、悪口言ってるのも知ってるぞ!」

と言われたら、

「はい、その通りです!!申し訳ありませんでした!!!」

って首を垂れるしかありません。

僕たちは往々にして、匿名の弱者を救うことの方が簡単で、隣にいる人に優しくする方が難しい。

そういうときは、そうね、キリスト教アガペーでも思い出すしかないかな(笑)

 

 

【小説】ぼくは友達が少ない

 

「俺だって知りたくなかったよ」

かれこれ六本目になる煙草に手を伸ばしながら河野は言った。

「けど、大学から帰ったら俺のベッドでヤッてたんだぜ?信じられっかよあの女」

もうこの店に来てから二時間は経過している。見渡す限り仕事帰りのサラリーマンばかりの安居酒屋で、さして美味しくもない肴をつまみながら彼の別れ話を延々と聞かされている僕の身にもなってほしい。たしかに彼は僕の数少ない親友だ。それでも興味のない話に親身になって返答できるほど僕は出来た人間ではない。

「俺のベッドっていうけど、お前は彼女の家に居候してたんだから正しくは『彼女のベッド』だろ?」

隣のテーブルに運ばれてきた鶏のなんこつを眺めながら、ぼくは気のない返事をする。

「そういう問題じゃねえよ。あいつが俺のいない間に男を連れ込んでたってところが問題で、この際だれのベッドかは関係ない。ただ一応言っとくと、おれはあのベッドで一日九時間は寝てたから、あのベッドは俺のベッドといっても過言じゃない。あいつの家にあった、俺のベッドだ。」

なぜか勝ち誇ったように彼は言い切った。まったくもって何と闘って何に勝ったつもりでいるのか見当もつかない。こういう単細胞チックなところが僕が彼のことを好きな理由でもあるんだけど。

「わかった、わかった。お前のベッドでいいよ。でもさ、連れ込んでたってことはたぶんそのとき一回だけじゃないだろ?お前それまで気づかなかったのかよ。」

 たぶんこいつのことだから気づかなかったんだろう、と思いながらも訊いてみる。コミュニケーションなんてものは大概がこうした無意味な確認の往復に過ぎない。

「それがさ、俺としたことが一度も気づかなかったんだよな。ホントあいつ巧妙に隠してたもんだよ。その点は尊敬に値するな。俺にはそんな器用なことは出来そうにない。」

「なんだよ、それ。褒めてんのかよ。」

ぼくは吹き出しそうになりながらツッコむ。

「褒めてはねえよ。ただ俺には出来ねえなって感心するってこと。感心でもねえか…」

 その微妙なニュアンスを乏しい語彙から伝えようと河野は顔をしかめながら言った。砂肝を串から外して口に放り込んだあと、彼は続けた。

「けどよ、俺の沽券に係わるからお前にも言うか迷ってたんだけど、ミカのやつ、あの細っちろいバンドマンのほかにもまだ何人か男がいたみたいなんだよな。それだけの人数と同時進行で付き合っていくってのは、やっぱりすげえよ。」

 ミカというのは彼と付き合っていた女の子のことだ。そして細っちろいバンドマンというのは河野が帰宅したときにミカとお取込み中だった不幸な青年のこと。ただ、このバンドマンもミカに騙されていたらしく、今では河野と飲みに行く仲らしい。敵の敵は味方、もしくは同じ穴の狢といったところか。それにしても河野にはこういう不思議なところがある。

 ぼくはまだこのバンドマン君には会ったことがないが、ミカには会ったことがある。よく知っている、といった方が正しいかもしれない。

 彼女と初めて会ったのは、彼女と河野が付き合い始めたばかりの大学二年の夏。別に会いたくないというぼくを河野が無理やり連れてって引き合わせたのだ。それ以来ちょくちょく河野を含めて三人でご飯を食べていたから、ぼくと彼女は一年ちょっとの付き合いになる。

付き合いたてで嬉しそうに彼女を紹介してきた河野の、まぶしいほどの笑顔が思い出されて初めて少しだけ胸が痛む。

「他にも男ね… まあ、そういうタイプの女は一人二人では済まないだろうな、とは思ってたよ。」

ぼくは言った。

「おいおい、そんなクールぶってひでえこと言うなよ。こういうときは嘘でもやさしい言葉かけるもんだろ。にしても、ミカに限ってはそういうタイプじゃないと思ってたんだけどなー」

「恋は盲目ってやつだな。」

 陳腐なセリフを吐きながら、ぼくの視線は隣のテーブルで給仕する女性店員の胸元へ向かう。屈みこむたびに露になる彼女の白い肌には微かな汗の玉が浮かんでいる。ムサい男の失恋話より目の前の美女。赤いポロシャツにつけられたネームプレートには「水上」と書いてある。みずかみ?みなかみ? 彼女はいったい何才だ?まだ若い。二十か二十一?僕らと同じ大学生だろうか?

「あんな良い子はいないと思ってたんだけどなー やっぱ俺には女を見る目がない!」

 僕が心ここにあらずであることにも気づかず、河野はそう言いながら本日七本目の煙草へ手を伸ばす。

「けど、こういうときにすぐ、新しい女紹介しろ!って言わないところがお前のいいところだよな。」

 無理やり意識を河野との会話に戻して僕は言った。僕らのテーブルの上には食べかけの焼き鳥の串が二本と締めに頼んだ鶏雑炊。それからぬるくなったビールに河野の煙草の山。そろそろ灰皿を変えてもらった方がいいだろう。出来れば、水上さんに。

「まあな。やっぱり俺、ミカのこと好きだったし。だから、そんな簡単に次行こ!次!とは言えないわけよ。」

おしぼりで額の汗をぬぐったあと、ニカっと笑って河野は続けた。

「それに、どうせ頼むならお前以外のやつに頼むよ。だってお前女友達少ないじゃん。」

河野は真面目なことを言ったあと、恥ずかしくなって茶化す癖がある。

「いや、お前よりは多いからね。」

 ぼくもすぐやりかえす。もちろん河野もこう言い返されることは織り込み済みだ。なんせ僕らの間では何百回も繰り返されたやりとりだから。

「でも、男友達は俺の方が断然多いけどな。」

 河野がさらに言い返して、ここまでがワンセット。正直お互いもうこのやりとりには飽き飽きしている。それでも会うたびに言ってしまうのは、ただの惰性というより心の底ではお互い気に入っているからかもしれない。ただ、どんな大好きだったミュージシャンもいつかは聴かなくなってしまうように、このやりとりの賞味期限が近いのも確かだ。いつか、河野との関係もこんなふうに賞味期限が来るのだろうか。

 世の中にはもう終わった関係にしがみつこうとする人が大勢いる。けど、料理でもなんでもできたてほやほやが一番うまい。惰性や不精のおかげで処分を免れたものが美味しかったためしは世の中そんなに多くない。大概は腐ってごみ箱行きだ。このテーブルの上のビールみたいに。

「さて、お決まりのやったところでそろそろ行きますか。」

僕の気持ちを知ってか知らずか、ようやく河野がこの無益な時間の終わりを告げる。

「すいません!お会計!」

彼が手を挙げて声を張り上げると店の奥から店員がくる。ああ、水上さんだ。こんな些細なことで少しだけハッピーになれるんだから、まったくもって僕の人生はチョロい。

彼女が焼き鳥の串を数えるために僕らの目の前で体を傾けると、隣のテーブルで眺めていたときには気づかなかった、香水と微かな汗の匂いが僕の鼻をくすぐる。年増の女性がつける熟れすぎた果実のような甘ったるい香りではない。爽やかで軽くて、微量の酸味がある。思わず体の芯から無方向な熱がこみあげてくる。

今日は話を聞いてもらったから、という理由で全額支払おうとする河野に、どうにか三千円押しつけ僕は一足先に居酒屋を出た。河野が店から出てくるのを独り待っていると、気だるい夏の夜風が火照った体にねばりつく。

「ホント今日はありがとな。」

河野が店から出てきて言った。

「まあね、こういうのはお互い様だから。」

「サンキュー、お前も彼女と別れたら言えよ。いつでも話聞いてやるから。あっ、別れる彼女がいねえか。」

河野はすぐ茶化す癖がある。

「うるせえよ。」

僕らは軽口をたたいて別れた。数歩進んでから、ふと気になって背後の河野をふりかえる。駅とは反対方向の家へ向かって歩いていく河野の足もとはふらついている。だけど、恋人と別れたばかりの男が無意識に漂わせてしまうような重苦しさや卑屈さが彼の背中には感じられなかった。彼は歩いていく。あいつは単純だし、女心なんてちっともわからないタイプだけど、僕なんかより断然強い。

 それに比べて僕ときたら…。

彼と別れてひとりになった解放感からか、はたまた寂しさからか、自然とポケットのスマホへ手が伸びる。ロックを解除してから通話履歴の一番上をタッチする。

「もしもし? もうバイト終わった? おつかれ。今日さ、今から会えない?うん、うん。 そう、今から。いつもの道玄坂のホテルで。いい? さんきゅー じゃあ十一時半にいつものとこで。じゃあまた、ミカ。」

電話を切って駅の方向へ歩き出す。十一時半まであと三十分ある。そうだ、バイト終わりのミカのためにコンビニでシュークリームでも買っていこう。彼女は甘いものが好きだから。

ぼくは友達が少ない。

映画『ヒミズ』について

「なんだってわかる 自分のこと以外なら」
ぼくらは常に確固たる〈わたし〉を求めて足掻いている。でも、おそらく、そんなものは存在しない。だから、不安になるし、絶望するし、人を傷つける。


ぼくらが〈わたし〉を措定するときには2種類の方法が考えられる。
一つは、「○○ではない」という他者との差異の網の目の中に自らを投企していく方法。つまり、他者の他者として自己措定する方法。
そして、もう一つは、性別・学歴・出身等、様々な属性の束として自らを把捉する方法。
いずれにせよ、ぼくたちは明確にカタチを持ったものとして〈わたし〉を知るのは不可能だ。
前者でいう、否定の集合としての自己が決して閉じることがないように、後者にしても、ぼくたちは属性の束として〈わたし〉ではあるものの、その属性のうちのいずれか一つに還元し得るものではないのだ。
つまり、〈わたし〉とは属性と共に変換・生成しつつある〈なにか〉でしかなく、その変換の過程以前に主体として同定できる〈わたし〉というものはないのだ。
ぼくたちは決して〈わたし〉という安住の地を得ることが叶わないと知りながら、その幻想を追い求めてやまない。


こうした〈わたし〉に纏わる問題の他に、この映画には、被災地の映像を使ったことに対して公開当時賛否両論があったように記憶している。
決して安易に取り扱うべき事柄ではないし、確かに表現としての強度と公共性・必然性を衡量する必要はある。
だけど、ぼくは、この映画には間違いなく良い方向に作用したと思っている。
ぼくは確かにこの映画から、口にしたら陳腐な、けれども大事なものを受け取ったから。

震災について描きながらも、住田や茶沢は被災者ではなかった。彼らは茨城の田舎に住む中学生でしかなく、その生活には殆ど変化はなかった。震災が起こってるんだから助け合おうとか、そんなことは上っ面でしかなかった。彼らにとって、地獄は相変わらず地獄だった。
それは、おそらく僕ら世代にとっての“リアル”だった。
ぼくらには、わからないことが“リアル”だった。
連日のニュース番組で、津波によって街が飲み込まれる瞬間や避難所で暮らす人々を見ても、どこか遠い国で起きている出来事のようにしか思えなかった。
もしかしたらこれは単なるぼくの想像力の欠如のせいかもしれない。
けど、少なくともぼくにはそれが“ほんとうのこと”だった。
そんな空気がこの映画の中、特に住田や茶沢の世代にはあった気がする。周りには確かに被災者が居て、それが現実のことだってわかっているはずなのに、どこか夢の中の出来事のような感覚。
そんな住田の世界は父を殺した夜に一変し、否が応でも“現実”に引き込まれていく。
そして、自首前日、住田が池で銃を撃ったあの夜、ようやくまるで夢か地獄のような住田の世界が“現実”に接続した。カラックスの『ホーリー・モーターズ』でドニ・ラヴァンが言っていた「自分自身として生きる罰」を、住田は引き受けたのだ。
有名なラストシーン、「住田 頑張れ!」ってセリフ。あれは、決して住田だけに向けてたわけじゃないんだろう。第一に被災者の方々へ。そして、みんな、へ向けていたんだろう。
時々、「もう頑張っている人に頑張れっていうのは酷だ」って言う人がいる。言わんとすることはわかる。
けれど、ぼくらには震災が、現実が、わからなかった。それはまだ幼かったからでもあるし、知りたくなかったからでもある。だから、ただ、叫ぶしかなかった。「頑張れ!」って。
あれほど心に刺さる「頑張れ!」はなかった。それでも「頑張れ!」で終わらせないために、まずぼくたちは知ることが必要なんだ。


ここまでだいぶベタ褒めしてきた気がするけど、この映画にもいかにも邦画的な悪いところは沢山あった。それでも、この映画は、口に出したら世界を凍らせる〈ほんとうのこと〉を伝えていた。
その意味でこの作品は、確かに、一編の詩だった。

ぼくたちの悲劇

今回は久々にちゃんとしたやつです。
ちゃんとしたやつ、と言うからにはちゃんと書きたいので、珍しいことに目次とか作りました。

0.そもそも
1.K君の言い分
2.ぼくの言い分
3.似てるようで似てない話
4.に、似てない!!
5.最後に

となっております。
最後までお付き合い頂けたら幸いです。

0.そもそも
まず、この記事を書こうと思ったことの始まりからお話します。
ぼくは文化サロン(Twitterアカウント:@post_dadaisme)というグループを高校の同級生3名と共に立ち上げまして、その第2回活動を2014年の12/14に神保町にて行いました。
で、その日最もエキサイトした話題に関して、ここのところ再び考える機会があったので、今回こうして記事にしようと思ったわけです。
そして、その話題とは、メンバーの一人K君の自説に関するものです。

1.K君の言い分
単刀直入に言うと、K君は
“愛とは形式である”
という思想の持ち主なんだそうです。
どういうことか、僕なりに説明しますね。(K君、間違ってたらごめん!)

僕たちが「ひとを愛する」というとき、僕たちはその対象の様々な属性(例えば性別や学歴、生い立ちなど。他にも数限りなく挙げられると思うけど。)を剥ぎ取ったさきにある、個人を個人たらしめる核または本質のようなものを愛することは不可能なのではないか。
つまり僕たちは相手そのものへの愛を語っているように見えて、その人に纏わるあらゆる諸属性を愛しているに過ぎないのだ。

“愛とは形式である”をぼくなりに噛み砕くとこういうことになります。
さらにK君はこう続けました。

この“形式でしかない愛”しか抱くことの出来ない人間は、生まれながらにして悲劇を内包している存在なんだ、と。

これに対してぼくがどういう意見を述べたかが、2章になります。



2.ぼくの言い分
ぼくはですね、まず、属性を剥ぎ取った先に個人としての核のようなものがある、という仮定に対し反論しました。

属性を剥ぎ取ったさきには、本質と呼ばれるような個人としての何かではなく、生命を生命たらしめる“普遍的な何か”があるだけではないか。(その日は生命ではなく人という言い方をしましたが、人間もひとつの属性として考えられると思い、訂正しました。そういう見方でカフカの『変身』を読み直しても面白いかもね。)

さらにそこから発展させて

“普遍的な何か”を備えたうえで個人を個人たらしめているのは“属性”それ自体であり、その意味において、ぼくたちが「ひとを愛する」というときに属性を愛していることは悲劇ではない。

こういうような応答をしました。
このあとも他の2人含めて色々話したんですけど、あまり今回の記事に関係ないので割愛します。
とまあ、このような会話があったわけなんですが、それでもやっぱり言い切れてない違和感みたいなものを覚えていたんです。
そして、最近その違和感の正体がはっきりとした出来事があったんです。
それでは第3章に。


3.似てるようで似てない話
ぼくはある面白い本を読んでいました。今も読んでるんですけど。
そこにこういうような記述がありました。

我々人間は「言葉」を、始めは親や兄弟、さらに成長すれば学校における学習によって獲得する。
つまり、言葉とは我々にア・プリオリに存するものではなく、而して完全には自分のものになり得ない。
それはすなわち、我々は生きるうえで「他者」をインストールしなければならないということである。

よく言われる“自分の言葉で語ることが出来ない”とか“私の言葉は全て借り物でしかない”とかは突き詰めればこういう意味ですかね。

また、言葉は空虚な音でしかない。
とすれば、我々は生まれながらに言葉という「空虚な他者」を抱え込んでいるのだ。しかしまた、それによって世界と折り合いをつけることが可能となっているのである。

こういうような内容でした。非常に面白いですね。
ところでですね、この話、K君の思想とそれぞれ「愛」と「言葉」という違いはありつつ、人間が本来持つ空虚さに言及している点で非常に似ているように感じます。ぼくだけですかね?笑
しかしですね、ぼくはこの2つの話には大きな違いがあると思うんです。
それが、章題『似てるようで似てない話』の意味になります。
謎解きは第4章。


4.に、似てない!!
ここまで来ればあと少しです。もう少しだけお付き合いください。

3章の通り、僕たちは最も身近な意思疎通のツールですら完全には獲得し得ないわけであり、「空虚」を中心としてコミュニケーションが行われているのです。
しかし、それを悲劇と言うか否かに大きな違いがあると思うんです。
ぼくたちが「悲劇的だ」と言うときには、主観的判断が含まれます。
そして、その判断は「それはこうあるべきだ」とか「こうあって欲しい」といった当為・願望の文脈から導かれる、ある種の“理想”からの逸脱として捉えられているわけです。
しかし、殊その“理想”を保障している文脈、それ自体に関しては何の根拠も存在しないのではないでしょうか。
「こうあるべきだ」と考える根拠はなく、「こうあって欲しい」のは私が“こうあって欲しいと願うから”でしかないわけです。
たしかに人生を悲劇的だと見る姿勢をひとつの人生観だと捉えることも出来ます。
しかし、それはすなわち
「(私が人生を悲劇的だと思いたいから)人生は悲劇的なのだ」
という自家撞着に陥ったテーゼに他ならないのではないでしょうか。
これが今回の言いたかったことです。
少しだけ補足します。
第2章に書いた通り、僕はK君に「属性を愛する事自体は悲劇ではない」という意見を述べました。今でもそこに間違いはないと思うんですが、一方で、属性の総体として「私」を捉えるのであれば、僕たちは帰納法的に属性を掻き集めて「愛してる」と言うのみであり、それはすなわち帰納法の宿命として、ひとを完全には愛しえないことの証明になるのではないか、という気もします。
これはたしかに悲劇かもしれません。
しかし、やはり“悲劇”という言葉を使うからには、我々の主観的判断の入り込む隙が出来てしまい、先ほどと同様の反駁が考えられるように思います。


5.最後に
ぼくは、決してK君の考えは間違ってるとか言いたいわけじゃないです。
K君は頭良いのでたぶんわかってくれてると思うけど。
ぼくは、「自分がこう考えてる」ってことを表明することで、彼の思想を深める役に立てればいいなって思っているだけです。ぼくもK君の話がなければこんなに深く考えることもなかっただろうし。
こういう風にお互いの思想を掘り下げていけるなら、「空虚な他者」である言葉も悪くないかもね笑
ぼくが文化サロンでやりたかったのは、まさにこういうことなわけです。
以上です。
K君また何か面白い話聞かせてください。
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最後まで読んでくださった方々、愛してます。