可能性と後悔

わかりあえない僕たちは

松明

忘れたいことも忘れたくないことも同じくらいたくさんあって。
でもやっぱり、忘れたいことの方がちょっぴり多い気もする。
ぼくはすごくわがままだから、みんなのことも綺麗さっぱり忘れてしまいたい!と思うんだけど、それでも、いざとなったら思い出せるように大事に金庫にしまっておきたいとも思う。
鍵はいつもの引き出しに入れて置くんだ。全部忘れちゃったら“いつもの”なんて意味はなくなっちゃうんだけど。
それでも、いつもの場所に。

なんでこんなに人間は不便なんだ。
スイッチ一つで記憶を消せるようにしてくれよ。
ぼくの感情も全て二進法で表せるようにしてくれよ。
愛してるか、愛してないか、胸のランプの点滅でわかるようにしてくれよ。
そしたら、きっとこんなに悩むこともないと思うんだ。約束は出来ないけど。

ねえ、みんなは何を期待しているの?何を信じているの?何に縋っているの?
ぼくらは何を期待して何を信じて何に縋っていけばいいの?
恋人とか、友達とか、家族とか、指先でちょいと押してやれば崩れてしまうような関係の中で、ぼくらが見つけることの出来る美しいものは一体なんなんだ。
ぼくらが、この真っ暗な洞窟の中から見つけだすことの出来る最も美しいものは一体なんなんだ。

火をください。
ここにあるはずの何かを探すための、火をください。

湿気

今日は雨だった。
昼前までは鈍い曇天で、まるで冬の天気のお手本のような空だったけれど、いずれにせよ持病の頭痛が悪化するからあまり好ましいものではない。
神様にも不機嫌な日はあって、ぼくらみたいな地上に生きる人間はただ黙って彼の理不尽を甘受する。
雨は憂鬱だ。
お気に入りの服は着れないし靴をすっかり駄目にする。しかも、新品の靴を履いた日に限って、雨。
それから、傘を持ち歩かなければならない。この非常に嘆かわしい人間の知恵の結晶は、約4000年前には既に存在していたらしい。そろそろ、よりモダンで洗練された画期的な道具を考えてもいい頃だろう。距離や言語の壁を克服しつつある人間が、未だに雨に対してこの原始的な対抗手段を行使し続けているのは些か滑稽な気もする。
何故傘は忘れられやすいのだろう。嵩張るくせに。
日本では年間30万本もの傘が電車に忘れられていくらしいが、これまで人類が鉄道に忘れた傘の本数は一体どれほどになるのだろう。そして、忘れられた傘は何処へゆくのだろう。傘の墓場とでも呼ぶのが相応しいような廃棄物処理場で、持ち主に忘れ去られた傘たちが、無念の叫びを上げながら解体されゆくのが目に浮かぶようだ。
ぼくがこんなに傘にこだわる理由はただ一つ。
そう、ぼくは今日傘を持って行かなかったのだ。
忘れたわけではなく、気づいていながら置いていった。そんな日に限って雨が降る。大抵、ぼくのやることは裏目に出る。


///////////////////////////////////////////////////////////////

ぼくの知り合いに傘を持ち歩くのが嫌いな女の子がいた。
誰だって傘を持ち歩くのはあまり好きではないと思うけれど、とりわけ彼女は、雨の日でもほとんど傘をささず濡れながら歩いていた。
それでもニコニコしている彼女の、そのいい加減さと朗らかさが魅力的だった。ただ、ぼくはやはり彼女に風邪を引いてもらいたくはなかったから、出来れば、彼女の主義に反したとしても傘をさして欲しかった。
だから、人から貰った少し高めの傘なら彼女も愛着を感じて持ち歩いてくれるかな、という期待を込め、彼女の誕生日に、誕生日プレゼントと一緒に、ちょっとお洒落な傘を渡した。
たぶんそれが彼女ときちんと話す最後のタイミングになるんだろうって予期していたし、事実そうなっている。



///////////////////////////////////////////////////////////////


今日の4限、講義終わりに校舎から出てみれば1時間前の小雨が大粒の雨に変わっていた。
傘を持たないぼくは、庇の下から一向に止まない雨を眺めて、ふとあの傘のことを思い出し、ただただ苦笑するしかなかった。

愛に関する断章

「何年か前にさ、『愛のむきだし』って映画あったじゃん? おれ、剥き出しじゃないと、愛じゃないと思うんだよね。」



愛はどんな形をしているのだろう。
まるいのだろうか。角ばっているのだろうか。ギザギザしているのだろうか。
それとも、人間のかたちをしているのだろうか。
人間のかたちをしている愛は、毎夜人が寝静まったころに歩き出しているのだろうか。君の愛が、君の代わりに、毎夜君の大事な人を抱きしめてくれているのだろうか。
人間のかたちをしている愛は、君にそっくりなのだろう。



海水浴をするハートの話、聞いたことある?
ぷかぷか、ぷかぷかと水に浮いて、ゆらゆら、ゆらゆらと水の流れに身を任せているらしいよ。
じゅうぶん海水浴をしたあとは、ご自慢の髭で岸まで泳ぎ、そしてみんなのからだの真ん中に戻ってくるんだって。
ぼくは思った。
海水浴したあとに、きちんとシャワーを浴びてくれなきゃ、ぼくの体に海水の塩が混ざってしまうじゃないか。

涙がしょっぱいのは、そういうわけなのだろう。



ぼくが君に対して抱いていた気持ちを、誰かが“愛”と名付けた。ぼくの知らない間に、ぼくの気持ちが規格化されていた。
君に抱いていたこの気持ちを、ぼくは愛と呼ばなければいけないのだろうか。
ぼくの気持ちは、もっともっと複雑で、美しくて、醜かったはずなのに。
いつのまにか小綺麗な瓶に詰められて、ラベルを貼られ、知らない街に出荷されていった。


×3

みなさん、お元気ですか?
お元気ですか?なんて訊かれても知らねえよって思う方が大半だと思いますが、まあせっかくだからご容赦ください。
ぼくの方はですね、まあ元気ではないですけど、生きてます。
生きてます。
それで充分ですよね。
元気に生きてる人の方が珍しいと思いますし。
I'm fine とは言えなくて Not bad って答えちゃうような、そんな人生でよくないですか?
生きてるって、そう言えるだけでよくないですか?
もうちょっと肩の力抜いていきましょ。

生きてる、生きてる、生きてる。

ぼくらは毎日くだらない自分に、くだらない生活に、嫌気が差してばかりだけど、もう少し生きてることに胸を張ってもいいんじゃないですかね。
いや、まあさすがに「おれ生きてるんだぜ?」とかドヤ顔で言われても「知ってる」って応えるか、黙って殴るかしか選択肢はないですけど。
それでも、もうちょっと誇っていいのかもしれないですね。
だって生きるのってしんどいもん。
“友達”なんて言いながら、いつでもそいつの顔色伺ってびくびくして、嫌われないように、あわよくば好かれるように、努力することがしんどくないわけないじゃないですか。
“恋人”なんて言いながら、愛してくれてるのかどうかすらわからなくて戸惑って、はたまた自分が愛してるのかどうかもわからなくて、そんな泥沼の中で一筋の幻想にしがみついて付き合っていくことが、しんどくないわけないじゃないですか。
しんどいですよ。
なんだかここまで書いたら、ホントぼくら頑張って生きてんな〜って思いますね。
世界中のみんなに一列に並んでもらって、前から順番に抱きしめていきたいくらいですよ。お前は頑張ってるよ!無理しなくていいからな!お前はもうちょい頑張れよ!とか言いながら。
まあ、それが出来ないからこんな文章を書いてるのかもしれないですね。

今回これまでの文章の中で一番とりとめがないかもしれないですね。
申し訳ないです。
けど、まあ自分的にはいいんですよね。
きちんと構成された精緻な文章も素敵だけど、自分が何を言いたいのかもわからないまま書き始めて、書いてくなかで色々生まれてくることも整理されてくこともあって、そういう書き方も悪くないですよ。
深夜3時にandymori聴きながらまともな文章書けるわけないでしょ。どうしてもエモくなるし、わけわかんなくなるし、それでも、

生きてる。生きてる。生きてる。



隕石が落ちた日

今回は久々にブログらしい文章を書こうと思ってます。というのも、武蔵美の芸術祭に行って思ったことを少しまとめとかないとな〜っと思ったからです。
ムサヴィランズとか武蔵美美少女図鑑だけ目当てで行ったわけじゃないんですよ!ってアピールもしとこうかと笑
で、まあ、どうでもいい話からするか真面目な話からするか迷ったんですけど、真面目なやつの方が本当にしたい話なのでそっちからお話させていただきますね。


今回の文章のタイトルにした「隕石が落ちた日」というのは、12号館の地下で開催されていた『五美術大学交流展』において展示されていた作品名からとらせていただきました。(ちょっとうろ覚えなので間違っていたらすみません!!笑)
この作品は3×4の計12枚の写真で構成されていまして、芸術祭で見た作品の中では特に興味深いものの一つでした。
どう興味深いのかというと、まずタイトルが素晴らしい。
ぼくたちは(ブログの読者諸兄の大半は実際に作品を見ていないだろうし、感性的な事柄に対し“ぼくたちは”という人称を使うことに些か問題のある感がしなくもないですが、ここはご容赦ください。)“隕石が落ちた”という言葉を聞くと、ほぼ必ず恐竜の絶滅やクレーター、崩壊した街など「死」のイメージを惹起される。
しかし、この作品は12枚の写真のうち、そういったイメージを喚起させるもの(動物の死や荒涼とした土地)は半数程度しかない。
残りの半数は至って日常的な風景の写真。
この、非日常と日常という相反するイメージをもち、一見無関係のように思える写真群が『隕石が落ちた日』という詩的なタイトルによって、一つの大きなストーリーのもとに、一つの有機的なつながりとして統合される。
ぼくたちは“実は”、常に死と隣り合わせの世界を生きている。もしかしたら明日突然背後からナイフで刺されて死ぬかもしれないし、本当に隕石が落ちてくるかもしれない。
しかし、日常生活を営む中でそんな当たり前の事実すら忘れてしまう。
いや、もしかしたら忘れたいのかもしれない。
だけど、本当の世界は常に歪でアンバランスで、生か死かなんてオセロの白黒みたいにコロッと変わってしまってもおかしくない。
そんな薄氷を踏むような世界の中でぼくたちは生きている。
まさにメメント・モリといったそんな当たり前の事実を、12枚の写真によって思い出させてくれる素晴らしい作品だった。

ぼくは結構長い間、「芸術としての写真」というものに懐疑的でした。
その理由は二つあって、一つは写真なんて誰でも撮れるってこと。“天才の御業”として考えられていた「芸術」って概念が、誰でも撮れるってことでグラグラしちゃうよね〜って話。
まあ、ただ、もう一つの理由の方がぼく的には重要なのでそっち重点的に説明します。
まず、写真って絵画に比べて“ホントっぽい”じゃないですか。どういう意味かというと、絵画はもう作者自身が創造した世界ってわかりきってるから、そこにフィクションとかノンフィクションとかいう概念を持ち込むのはナンセンスだと思うんだけど、こと写真に関しては作者って存在が輪郭を喪って、現実をありのままに映してるような錯覚に陥るよねってこと。
だけど、貧しい人を撮ったように見せて、本当は、裕福で幸福な人がそういうポーズとっただけの可能性とかあるわけじゃないですか。さらに、今やフォトショとか写真のレタッチ技術もどんどん発達して、もはや被写体と似ても似つかない作品になってる可能性もある。
“真実性が疑わしい”って言えばいいんですかね、そういう部分に関して「どうなのよ?」って個人的に長らく思ってたわけです。
けど、今回『隕石が落ちた日』という作品を見たことで、そういう恣意性があるからこそ創り出せる世界もあるんだなって思ったんですよね。
というか、逆にそういう恣意性を利用することで、絵画とも映像とも違う、写真として独自の価値を生み出せるのかなって。
『隕石が落ちた日』
それはたった12枚の写真だけれども、鑑賞者次第で、そこから無限の物語を再生し得るんじゃないでしょうか。


はい、思ったより長くなってしまいました。疲労困憊です。もう少し続きますので、よかったら最後までお付き合いください。
続いて話したいのは、作品に関してというよりもぼく個人に関する話です。
芸術祭をぷらぷら歩いてたとき、4号館のどっかの部屋で面白い光景に出くわしました。
ぼくがある絵画を「面白いな〜」って思いつつ通り過ぎようとしていたら、その前で女性が作者と思しき男性に「どういう意図でこの作品をつくったんですか?」って尋ねてたんですよ。
そしたら、その男性、自分の作品なのに「きっとぼくは〜」とか「たぶん〜」とか連発してめっちゃしどろもどろに説明していたんです。
それを見たとき「えっ、なんだ美大生そんなもんか」って落胆もあったんですけど、よくよく考えたら割と当然な話ですよね。
彼らは自分が表現したいと願うものや、自分の中のモヤモヤを整理するために、絵画や彫刻という、まあ一般から言えば特殊な表現形式を選んだわけですけど、たぶんその選択の理由には多かれ少なかれ一般的な“言語”という表現形式に肌が合わなかったってこともあると思うんです。もちろん論理を言語化することが得意な芸術家の人もたくさんいますけども。
そう思ったら、せっかくぼくは言語という分野に比較的慣れているので(不遜な言い方ですいません)、彼らの作品への想いを言語化し論理づけ構成し、再び作品へと収束させるディレクターとしての仕事が出来ればすごく嬉しいな〜って思ったんですよね。
現代芸術活動チーム目【め】の南川さんみたいに。
南川さんに関してはこの記事(http://www.cinra.net/interview/201407-me)を読んでくれればいいんですけど、彼の“天才を支えるためにアーティストを辞めた”という人生、実際めちゃくかっこいいと思います。
ぼくは元々アーティストでもないし、勿論天才でなんかないので、そういう風に人を支えて生きることに抵抗はないんですけど、アーティストとして活動していた南川さんにとっては本当に苦渋の決断だったでしょう。それでも今ああいう風に活動してらっしゃるのは、重ねがさね言いますけど、すごくかっこいい。
ただ、ぼくとしては自分の中で“広告”ってものが一番にあるので、そっちの仕事をしながら、素晴らしいアーティスト=天才に出会ったときにまた考えたいと思います。


ここまでが真面目な話。長くなりすぎて自分でもびっくり。
あとは割とどうでもいい話(笑)です。
①ムサヴィランズについて
②世界の鵜飼展について
③その他

①ムサヴィランズなんですが、悪者ってコンセプトで活動してるはずなんですけど、ぼくが「2時間かけてムサヴィランズに会いに来たのに、くじハズレちゃったよ〜」って笑ってたらオクトパス・つぼ美がごめんねってジェスチャーしてて、なんだこいつらめっちゃ優しいやん!って思いました。あと、妙にみなさんセクシー。

②この『世界の鵜飼展』が1番ホントにどうでもいい話です。12号館の3Fにあった展示で、単なる悪ふざけでしかないんですけど、悪ふざけもあそこまでいくと面白いな、って思っただけです。
大学生らしくて青春っぽくて一周回っていいかもってやつ。はい、この話終わり。

③その他。
えー、芸術祭の最中に中央広場で男根を祀ったお祭り(女神神輿かな?)が始まって、武蔵美気合い入ってんなって思いました。彫刻学科伝統行事っぽくて、ぜってえ彫刻学科に入りたくねえなって思いました。
あと、これ書くためにパンフ見直してたら結構見てない展示あったので「もったいね!」って思ったんですけど、それもまた縁。いつか出逢えればいいね。
これで最後。
芸術祭には同じ高校に通ってた男友達と行ったんですけど、彼がカノジョにお土産のアクセサリーやらを楽しそうに選んでるとき、ぼくはポツンと離れた場所で独り待ちながら、カノジョのことを想って楽しそうな彼を羨望の眼差しで眺めていました。
以上本日の総括でした。



拝啓

10月10日午前3時、あなたはいかがお過ごしですか?ちゃんとご飯は食べましたか?ちゃんと歯磨きしましたか?ちゃんと愛する人に愛してるって伝えましたか?2014年10月10日の午前3時はもう2度と来ないことをあなたは知っていますか?悔いのないように生きましたか?あなたが死んだときに1番に泣いてくれる人はできましたか?
私は、私は、たぶんあなたが死んだら1番に泣きます。たとえあなたのお父さんやお母さんが1番だと言い張っても、意地でも1番は譲ってやらないつもりです。
1番泣いて、それから1番最初に「あの人こんなに早く死ぬなんて馬鹿だよなぁ」って笑い飛ばしてやるつもりです。
手紙の書き出しにしてはかなり突飛で物騒なことばかり書いてしまいました。反省しています。
ところで、最近面白い話を知りました。
帰納法問題、といいます。博識なあなたのことだからたぶん御存知で、いつも通り眉を少しだけ下げて、あまり知らないフリをして、「どんな話?教えて?」って言うのでしょう。私より詳しいクセに。まあ、そんなあなたのために説明します。人は普通、翌朝目が覚めたらベッドが砂漠に変わっているかもしれない、とか、駅だった場所が熱帯雨林になってるかもしれない、なんて話をされたら馬鹿な話だって一蹴するでしょ?けど、それは今まで人類の歴史上“そういうことは一度も起きなかった”っていう単なる帰納法的な考え方によって導かれてるだけで、翌朝、いやもしかしたら、次の一瞬に世界がなくなってしまうかもしれない可能性を否定する根拠にはなり得ないんだって。
どう、面白いでしょ?けど、私の説明でその面白さを充分伝えられた気はしないから、いつも通りそれとなく、私のプライドを傷つけないやり方で、訂正したり補足したりして下さい。
私、この話を聞いたときすごく興奮したんだけど、同時にやっぱり哲学者はダメね、って思ったの。だって、誰がベッドが砂漠になって喜ぶっていうの?それだったらもっと、翌朝目が覚めたら隣りに愛する人が寝ている可能性がある、とかそういうロマンチックな例を出した方がいいと思うのよ。だから哲学者はダメ。
あなたみたいに自分は哲学者じゃないって言い張るような人はもっとダメね。
まあ、それはいいとして、私の例、すごくロマンチックじゃない?だって、ホントはみんな気づいてないだけで、寝てる間は遠くにいるはずの愛する人が隣りにいて、目が覚めたらいなくなってるだけかもしれないのよ?そう考えると毎日ベッドで寝るのも悪くないわね。
それに、早く眠ればそれだけ愛する人と一緒にいられる時間が増えると思えば、毎日の睡眠時間がすごく充実する。
こんなこと書いてたら欠伸が出てきちゃった。もう午前3時だし。
もっともっと色んなことを書きたいと思っていたんだけど、今日はこのくらいで筆を置くことにします。私が言うのも可笑しいけれど、次の手紙を楽しみに待っていてください。たぶん遠からず、気分が乗ったら書くでしょう。


あなたが泣いて過ごす夜が少しでも減りますように。

敬具

アンハッピー

「死にたい」を言うことの出来ない世界でぼくは生きている。
うっかり「死にたい」を口に出そうものなら、すぐに“生きなさい警察”が飛んできて、更生施設に連れて行かれる。
“生きなさい警察”は常に目を光らせているのだ。
更生施設ではアフリカの貧しい子供たちや中東の戦争孤児たちの映像を見せられて、
「生きたくても生きていけない人たちがいるのに、お前はまだ《禁じられたワード》を言うのか!彼らに比べてお前はどれほど満ち足りた生活をしているのだ!
家族がいて、友達がいて、お金もあって、ついでにお前には恋人もいる!それのどこが不満なのだ!」
こんな言葉を24時間浴びせ続けられる。
この更生施設を出る頃には、みんなすっかり見違える。
おっ、ちょうど1人出てきたようだ。

「私は間違っていました。これだけ恵まれた環境にいながら、あんな忌まわしい言葉を口にするなんて。
今ではこの更生施設に連れて来てくださった“生きなさい警察”の方々に感謝しています。そうですね、これからはもっと社会に貢献して、恵まれない環境に住む人々を救いたいと思います。」

ほら、こんな風にね。

ぼくはまだ、「死にたい」を口に出して言ったことはない。
だって、あんなヘンテコな施設に入りたくはないからね。
だけど、心の中ではいつも唱えている。

死にたい けれどもそれは深刻な悩みではなくて
死にたい 諦めに似たような、祈りに似たような
死にたい 愛されたい

何もかもが足りた生活のなかで、何かが決定的に足りない。
全てを掴んでいるようで、何も掴んじゃいなかった。

もっと貧しい人がいるから、もっと恵まれない人がいるから、そんな理由で死にたいって言えないのなら、ぼくはもっと不幸に生まれたかった。
ぼくがもっともっと不幸で不幸でどん底に生まれていたら、絶対大きな声でこう叫んでやるんだ。


死にたい!!!


扉を叩く音が聴こえる。